輪廻のエッセイ(魂の記録)

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深沢山⛰さん(八王子城本丸跡)

輪廻のエッセイ(魂の記録)
 
私の先祖は、富山県の五福村一番地に、曽祖父の清水清兵衛が住んでいました!明徳寺に過去帳が有ります、それ以上は不明です?母方の祖母は、新井姓なのですが、新井家の墓誌に「木曽義仲之孫新井和泉守源義寛 元亀三壬申正月十九日と有ります。次に新井隼人源定寛の名前が有ります、次の人も新井縫殿源定長で源姓を名乗っているのです!『武蔵名勝図会』元八王子村の項三三八頁下段に「新井屋敷 北条家臣新井某が居住の地なり。子孫当所の村民となりて、この辺に住す。村の西寄りなり。」と有るのです。母方は、志村姓で『新編武蔵風土記稿第五巻』雄山閣二五二頁上段に「百姓清左衛門 子名中宿に住せり、先祖を志村将監と云、北条の家人なり、落城後こゝに隠逸せりと云、」と記されております。この志村家が本家なのです、カサンキョウ(上の境の隠居)伴七−平四郎−嘉十郎−勘蔵−義治−君夫(夭逝)ですが、母方の志村家は、絶えて居ります。江戸時代に深沢山の八王子神社を再建した、鉄山無心さん(夫婦の廻国者?)を援助していたのは、名主でもあった本家の人々なのです‼️
 
多摩大石氏についても研究しております。最近不思議なのですが、私に繋がる縁だなぁと思いながら書きます。
 
大石氏は、「室町時代初期、大石為重は初代関東管領上杉憲顕に仕えた。彼には男子がなく、1334正慶3年)に、縁戚関係にある木曾義仲の後裔と称した大石信重木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、実際の藤姓木曾氏庶家となったという。」(ウキペディア)なのです。新井家の祖母から木曽義仲公に繋がるっているらしいのです?
15世紀末期頃の禅僧万里集九の著作、漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。1521大永元年)、定重は高月城の北東1.5km滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転した。(ウキペディア)
 
義仲公の嫡男である、義高は清水冠者を称して居ます。スポーツ用品卸の営業をしていた時に、木曽義高さんをお祀りされている、国道20号沿いにある清水神社が、好きで何度か訪れていました❣️
 
当社の創建は、祭神・源義高の最期が関わっている。『吾妻鏡』や旧入間川狭山市中心部)の総鎮守である八幡神社に残る諸伝によれば、寿永2年(1183年)に父・源義仲が挙兵して勢力を拡大し、それを危険視した源頼朝と反目して一触即発状態となった際、和議に応じた義仲により人質として息子の義高が鎌倉に送られたのが発端である。この際、義高は頼朝の娘である大姫の婿という名目で鎌倉入りすることになった。一種の政略結婚であったが大姫は義高を愛し、一時の平和が訪れた。
しかしその後に急速に義仲と頼朝の関係が悪化して合戦に発展、翌寿永3年(1184年)には義仲自身が近江国粟津原で討たれてしまう。このことで義高の地位は決定的に悪化し、頼朝は元暦元年(1184年)421に後顧の憂いを絶つため「敵の子に娘を何でくれてやる必要があるものか」と義高の粛清を決定した。
これを聞いた侍女の連絡で身の危機を知った義高は、大姫や義母・北条政子の協力で女装、家臣を身代わりに立てて密かに鎌倉を脱出し、生まれ故郷である武蔵国男衾郡(現在の埼玉県比企郡嵐山町)の菅谷館へと落ち延びんとする[1]。だがすぐにことが露見、「謀叛人」として追討軍に追われる身となる。そして426入間河原の八丁の渡で追いつかれ、藤内光澄によって討たれた。
これを知った大姫は心労の余り悲嘆に暮れて病臥するようになってしまい[2]、これを義高が討たれたためと考えた母・政子は激怒して頼朝に猛抗議し、義高を討った藤内光澄を打ち首に追い込む。
その一方で政子は義高の供養を行うこととした。首を取られた義高の遺体がその最期を憐れんだ里人の手によって討伐地の入間河原に葬られていたことを受け、その年の5月、その墓の上に義高を祀る社を建てたのである。これには畠山重忠らの口添えもあったという。
そして当社は政子の手厚い保護を受けることになり、政子自身もここに参拝したとの伝が残る。当時は赤の玉垣をめぐらした壮麗な社殿を持つ大社であったが、応永9年(1402年)8月の大洪水の被害を受けて大破、再建されることなく現在の狭山市中央公民館付近にあった成円寺(現在廃寺)の境内に移されていた。
その後、幕末になって永享2年(1430年)の年号、鎮座の由来と当社の来歴を刻んだ石の祠が現在地より出土する。『新編武蔵風土記稿』によれば神体は法体の義高がうちわを持って立っている像であり、三面に以下のように刻まれているという。
元暦甲辰春哉。義仲男頼朝婿志水義高。遙聞於父之伏誅出鎌倉。舍走鎌形館追兵迫而圍于此。入間河原長堀氏親家馘冠者首逝矣。郷民埋骸樹槻而爲檀焉。外姑平政子悲己。如斯報號志水八幡也。應永洪水潰廟拔木。大凶其迹故録其傳於槻。基石之小祠以徴討古之信。永享二庚戌之春日建也。
明治時代に入って廃仏毀釈により神仏分離が行われた際、既に元の社地が不明となっていたことから、この祠の出土地をかつての清水八幡宮の鎮座地として遷座。件の祠を本殿とし、その上から木造の覆殿をかけることとした。
現在、当社は国道16号線と本富士見橋に向かう道が交わるそばにたたずむ小社となっており、境内には「清水冠者源義高終焉の地」の標柱や説明板以外目立ったものはない。狭山市指定文化財。(ウキペディア)
 
義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。同年7月、義仲は平氏を破って入京する。しかし義仲はを治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。頼朝は都に源範頼源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、寿永3年(11841月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。42161)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。義高は42666)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党藤内光澄に討たれた。享年1251610)に義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、62785)、光澄は晒し首にされた。
神奈川県鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。(ウキペディア)
 
清水家は、浄土真宗なのです。しかし、母方の志村家の墓地を受け継いだ関係で曹洞宗に宗旨替えしました。宗関寺の檀家となったのですが、この寺は、北条氏照公の菩提寺なのです!
私が産まれたのは、慈根寺山西明寺の本堂跡でした。儀海上人と関係の深い、真言宗の寺なのです!本尊は、阿弥陀如来です。寺宝は、薬師如来なのですが、北条氏直公が寄進されたとなっています。
最近、ようやく、氏子とさせて頂いた「梶原八幡神社」は、西明寺別当なのでした!正式な氏子ではなく、隠れ産土の神様だったのですねぇ⁉️八幡神社の神様ありがとう😊ございます❣️
 
東北地方南部を中心に分布する作神的性格をもつ信仰。葉山端山,羽山,麓山などと記されるが,奥山や深山(みやま)に対する里近くの端山を意味する。多くは村はずれの山の上に小祠を設けてまつられ,祭神を羽山祇神,少彦名(すくなびこな)命とし,薬師如来本地と説く。山形県村山市の葉山からの勧請(かんじよう)をいう社もあるが,葉山修験との直接の関係を示す史料は見いだせない。葉山信仰の特徴は作占における託宣儀礼にある。(世界大百科事典から)
 
山頂に八王子城の本丸跡がある深沢山⛰さんに、私の信仰の原点を見出したように思っております❣️西寺方町の宝生寺団地から、朝夕に眺めていたお山が深沢山さんでした!産まれた地に戻って、娘夫婦の家に増築してもらい、同居し隣の部屋の窓から深沢山さんに朝夕感謝の想いを伝えさせて頂いております。
 
富山県には、清水姓の人々が多いのでしょうかねぇ⁉️清い水で出逢った人々を浄めたいなぁと思います‼️全国の清水姓を代表しての清水中世史研究所 (清水太郎)に於いて「記録者(種を蒔く人)」としてこの世に生を受けた勤めだと思っているこの頃なのです⁉️デモネェ、言霊や手を使って癒す事のできるのは、三男の孫だけの様らしいのです❣️魂のお寺は、京都の清水寺さんの様な気がしております⁉️
 

創建伝承

編集

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館)『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁大略次の通りである。
宝亀9年(778)、大和国興福寺の僧で子島寺[2] で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して、去っていった。行叡は観音化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
 
Google mapでは、多くの神社仏閣、旧跡、野山の写真を撮って投稿しています。刻まれた人々を記録させて頂いています、しかし、何処にも名を記せなかったお子さんたち、望まないのにこの世から抹殺された人々をも、郷土史家、詩人、エッセイストとして生かされた記録者(種まく人)としての使命を果たいと考えております。
清水中世史研究所 清水太郎 平成31年4月15日(73歳の次の日)