『儀海みち』

『儀海みち』
                          清水太郎
   はじめに
 日野市高幡不動尊金剛寺の中興開山権少僧都儀海は鎌倉期の弘安二年(一二七九)から文和三年(一三五四)までの生涯の大半を、新義真言宗教学の研鑽に情熱を捧げた僧である。この間の様々な人々との出会いや出来事を通じてこの時代を理解したい。
儀海の足跡は奥州小手保の甘露寺、下野小山の金剛福寺常陸亀隅の成福寺、武州横河の慈根寺、同じく北河口の長楽寺、相模鎌倉の大仏谷や佐々目、山城醍醐の三宝院、紀州高野山金剛峯寺、同じく蓮花谷の誓願院、紀州根来の大谷院、同じく豊福寺中性院など各地の談義所を繰り返し訪れている。その地を辿ることによって、従来等閑視されてきた儀海の研究を深めていきたい。
 各地における儀海の足跡図(現存しない寺を含む)

陸奥川俣甘露寺 福島県伊達郡川俣町(不明)②下野金剛福福寺 栃木県小山市(不明)③常陸亀熊成福寺 茨城県桜川市真壁町亀熊(不明)④武蔵慈根寺 東京都八王子市元八王子町(廃寺)長楽寺 東京都八王子市川口町(現存)高幡不動 東京都日野市高幡(現存)⑤鎌倉大仏谷・佐々目 神奈川県鎌倉市(地名有)⑥醍醐三宝院 京都府伏見区醍醐(現存)⑦高野山金剛峯寺・誓願院 和歌山県伊都郡高野山(誓願院は不明)⑧紀州根来大谷院・豊福寺中性院 和歌山県岩出市根来寺の前身)
儀海についての研究は櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』正(昭和三十九年)・続(昭和五十年)、細谷勘助氏「儀海の布教活動と中世多摩地方」(『八王子市郷土資料館紀要第一号』)、高幡不動尊金剛寺貫主川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」(『多摩のあゆみ』一〇四号平成十三年)などがある。それらの著述の基となるのは昭和十年に著された黒板勝美編『真福寺善本目録』正・続二冊(昭和十年)である。現在は智山伝法院編『大須観音真福寺文庫撮影目録上・下巻』(平成九年三月三十一日発行)がこれを補っている。
 名古屋市大須の真福寺開山である能信は、その伝に「赴東部、謁高幡不動儀海和上、探中性一流之源底、今吾寺称武蔵方是也」とあり、儀海を師主として、新義教学の布教につとめた。師主儀海は事教二相の達人で、法脈を「虚空蔵院儀海方」と称し、それは能信に附法され「武蔵方」といわれる。儀海が諸域で書写した密教経典は、能信をはじめとする弟子たちによって書写され、この写本を通して、また各地方に転写されていったので、教学は関東のみならず、広く広範囲に伝わることとなった。また、能信は真福寺を開くにあたり、自ら書写したものを含め、多くの経典を名古屋へ移したが、それらはまとまった形で今日に伝えられている。それゆえ私たちはこの経典に奥書を通して、儀海の行動を知ることができるのである(『細谷勘助』)。

一  密教(容易に知りえない秘密の教えの意味)
 現在、チベット周辺と日本だけに残る仏教の一つの宗派である。密教は唐の開元初年,インドの善無畏と金剛智が『大日教』(胎蔵界)系統と『金剛頂経』(金剛界)系統の密教を伝え,唐の一行・不空・恵果らがこれを継承発展させた。この隆盛期に,空海最澄・円仁・円珍らが入唐して日本にこれを伝え,真言密教東密)と天台密教台密)をおこした。これ以前の密教である雑密と区別して,純密と称される。すでに奈良時代には密教経典とその修法も伝えられていたが,その体系化は空海以降のことである。金胎両部ないし胎金蘇(蘇悉地)三部にもとつき身口意三密加持による即身成仏を説き,潅頂・修法・曼荼羅の作成が行われた。特に荘厳な儀法全体に意味があり,それは秘密に口伝されたが,道教陰陽道・神祇思想や作法と混合するところも少なくない。
 次に専門的語彙について若干の解説に触れておきたい。
胎蔵界 金剛界に対する密教の両部(両界)の一つ。正しくは胎蔵(法)という。胎蔵とは,母体で胎児を保護養育することにたとえて万法をふくみおさめること。これを図像化したものが,胎蔵(界)曼荼羅
金剛界密教の両部(両界)の一つで,胎蔵界に対するもの。金剛とは堅固な宝石のことで大日如来の堅固な知恵にたとえられ,その悟りの境地を金剛界という。この境地に至る道程を図案化したのが金剛界曼荼羅
曼荼羅曼陀羅梵語の音訳。インドでは祭典用の土壇を築いて諸仏を配置したものをいい,中国・日本では密教の修法のため多くの尊像を一定の方法にもとついて整然と描いた図像をいう。費用減形式から区別すると,諸尊の形相を彩画した大曼荼羅(原図曼荼羅),諸尊の持物で仏体を表した三味耶曼荼羅,諸尊を表す梵字(種子)の記号だけで表した種子曼荼羅(法曼荼羅),諸尊の形像または持物を立体的に鋳造・彫刻した羯磨曼荼羅に分けられる。また内容によって区別すると,大日如来を中心に各部の諸尊を配置した都部曼荼羅と,大日の別身である阿閦・阿弥陀・観音などの特定尊を本尊とした別尊曼荼羅とに分けられ,前者の代表は金剛界胎蔵界両界曼荼羅であり,後者は仏頂・経法・菩薩・天部の各曼荼羅がふくまれる。なお垂迹画や変相図などを曼荼羅とよぶこともある。
即身成仏 現世でこの身のまま悟りを開き仏となること。特に真言密教では根本教義とし,法界中で平等な仏と衆生は心・口・意による観想・真言・印の作法により一体化し,衆生は成仏すると説く。
潅頂 如来の五智を象徴する水を仏弟子の頭頂に注ぎ,仏の位の継承を示す密教の儀式。阿闍梨位を得るための伝法潅頂,多くの人々に仏縁を結ばせるための結縁潅頂など,種類は多い。
東密 真言宗に伝わる密教天台宗台密に対する呼称。東寺を根本道場とする。唐より帰国した空海は,密教のみが真実の教えであるとして,東寺を中心に弘布した。のち広沢・小野二流に分かれ,さらに多数の流派に分かれた。台密胎蔵界金剛界・蘇悉地の三大法に対して金剛胎蔵両界説を説く。
台密 比叡山延暦寺を総本山とする天台宗に伝わる密教真言宗東密にたいする呼称。山門派と寺門派の二派がある。東密の金剛胎蔵両界説に対し,胎蔵界金剛界・蘇悉地の三大法を説く。
道教 中国で二世紀頃始まった,多様な民間信仰と神仙思想・養生思想・儒教仏教などが習合した信仰。神仙となることや不老長生をもとめる。日本では特に陰陽道修験道に影響を与え,庚申信仰にはその色彩が顕著である。
陰陽道 古代中国の陰陽五行思想にもとづき,災異や人間界の吉凶を説明し易占などを行うことを主要な要素とし,これに祓や祭祀もふくめ日本において体系化された技術。十世紀ころ陰陽道という名称が一般化し,天文・暦などをふくむ学問体系として発展した。日本へは六世紀ころ百済から伝来し,天武朝に国家による組織化が進み,大宝令で陰陽道の担い手となる陰陽寮中務省の被官としておかれた。とくに平安時代には貴族社会を中心に発展し,新たな禁忌や様々な陰陽道祭祀がうまれた。十一世紀後半以降,安部・賀茂両氏によって陰陽道は家業化された。中世になると,武家,有力寺社,民間へと広がり,他の思想・信仰・芸能などと習合して様々な展開をみせ,近世に至って幕府の宗教統制の一環として土御門家によって組織化され,朝廷や幕府の礼儀などにも取り入れられた。明治維新後,陰陽寮太陰暦の廃止により,公的な場で陰陽道は用いられなくなったが,一部の禁忌等はその後も民衆生活に影響を与えた。
神祇思想神 にかかわる観念や信仰の総称。狭義には令制の「天神地祇」に関する思想であるが,広く土着の神観念をもふくむ複合的で,また歴史的に形成された緩やかな概念として用いられている。もともと日本では,天地の神や,人格的な祖先とその系譜神を祭る慣行がなく,しかも教説もなくて,各種の自然形象を共同体や生業の神として祭った。その後,仏教の受容や道教の部分的な接触とも関係して,神を偶像として命名することや,ケガレ(穢)と祓を重視すること,『古事記』『日本書紀』にみられる神話(日本神話)の創作などが進んだ。そして,天皇の祭祀権のもとで二義的な「天神地祇」が編みだされた。この二重構造のもとで,奈良後半期からさらに氏神祭祀が派生し,平安時代からは広く民衆をとりこむ形で怨霊信仰が生まれた。やがて密教陰陽道・中国思想などもふくみこんで,天地生成を説く中世神道が誕生したが,なお『日本書紀』にある神観念が強く影響した。ここには教説の成熟もみられないが,禁忌・清浄に関する考え方などは一貫している。

 二  偉大なる日本密教の祖師たち
 インドで七世紀以降密教が成立すると、最澄空海が入唐しその教えを我国につたえた。
古代末から中世は仏教の時代であるといえるが、その中でも密教は中心的存在である。空海真言宗に遅れをとつていた天台宗の教義も限りなく真言宗に近づき、追い越してゆくそれを可能にしたのが、円仁と円珍である。やがて、南都諸寺も次第に真言化してゆくことになる。儀海は空海の法脈を伝えた真言僧である。祖師、空海に対する憧憬の念は真福寺文庫の聖教類の奥書に窺うことができる。次に空海最澄・円仁・円珍について略歴を記しておきたい。
空海 宝亀五年(七七四)~承和二年(八三五)平安初期の僧。真言宗の開祖。諡号弘法大師。讃岐の人。父は佐伯氏,母は阿刀氏。幼名真魚。延暦七年(七八八)伯父阿刀大足トともに入京,七九一年大学に入るが退学して仏道を志し,四国の難所で苦行を重ねた。七九七年京にもどり『三教指帰』を著わした。八〇四年唐にわたり,長安で清竜寺の恵果に師事して密教を学び,胎蔵・金剛両部さらに伝法阿闍梨の潅頂をうけた。大同元年(八〇六)密教の図像や経論などを携えて帰国し,その目録を朝廷に献上。筑前観世音寺・和泉槙尾山寺を経て八〇九年京に入り高雄山寺に入住。以後最澄と交際し,また詩文などの素養により嵯峨天皇に寵遇された。弘仁二年(八一一)乙訓寺の別当となり,翌年高雄山寺で最澄とその門弟に両部潅頂を授けたが,このご最澄との間に確執が生じた。八一六嵯峨天皇より高野山の地を賜って金剛峯寺の建設に着手した。八二二年東大寺内に潅頂道場(真言院)を創建し,八二三年東寺を賜って真言宗の根本道場とし,教王護国寺と名づけた。天長元年(八二四)少僧都,八二七年大僧都。八二八年庶民教育のために綜芸種智院を建立。承和元年(八三四)宮中に真言院をもうけ後七日御修法を創始し,翌年高野山で死去した。詩論書『文鏡秘府論』,宗論書『弁顕密二教論』『秘密曼荼羅十住心論』。その漢詩は弟子真済編『性霊集』に,筆跡は『風信怗』にうかがえる。
最澄 神護景雲元年(七六七)~弘仁十三年(八二二)平安初期の僧。天台宗の開祖。幼名広野。諡号伝教大師。叡山大師とも。近江の人。父は三津首百枝。行表の弟子となり十五歳の時,国分寺僧として得度。延暦四年(七八五)東大寺で受戒したが比叡山に入り,山中に草庵を結んで修業の生活を送った。七九七年十禅師に任ぜられ,翌年比叡山で法華十講を始終,八〇二年和気氏の催す高雄山寺での天台会の講師をつとめた。八〇四年遣唐使に伴い入党して天台山に参じ,台州で天台の教義・戒律・禅を学び,また越州で順暁から密教の潅頂を受け,翌年多くの仏典を携えて帰国した。最澄を援助した桓武天皇高雄山寺に潅頂道場を設立。天皇看病の功により大同元年(八〇六)止観業と遮那業の天台宗年分度者二人が許可され,日本天台宗が開かれた。遅れて帰国した空海と親交を結んで密教を学び,高雄山寺で空海から潅頂をうけたが、のちその仲は険悪となった。弘仁五年(八一四)九州,八一七年関東へと赴き,天台教学の布教につとめたが,特に会津法相宗僧徳一との三一権実論争は有名。八一八年~八一九年,三度にわたって朝廷に『山家学生式』と総称される天台僧養成の規定を奉り,大乗戒壇の設立を懇請したが,南都の僧綱の反対により許可されなかった。『顕戒論』はその際に南都の僧綱が提出した奏状に反論したもの。八二二年最澄死去の直後,弟子光定の尽力や藤原冬嗣らの援助で大乗戒壇設立は嵯峨天皇により勅許された。
円仁 延暦十三年(七九四)~貞観六年(八六四)平安前期の天台宗の僧。山門派の祖。諡号慈覚大師。俗姓壬生氏。比叡山に上がり最澄に師事。伝法潅頂をうける。承和五年(八三八)入唐。五台山参拝ののち長安に入る。武宗による廃仏が始まり,還俗姿で帰途につく。八四七年帰国し比叡山にもどる。斉衛元年(八五四)三世天台座主となり,天台宗密教化に貢献した。文徳・清和両天皇藤原良房らの帰依をうけた。主著『入唐求法巡礼行記』『顕揚大戒論』。
円珍 弘仁五年(八一四)~寛平三年(八九一)平安前期の天台宗の僧。寺門派の祖。諡号智証大師。俗姓因支氏,のち和気氏と改姓。讃岐の人。十五歳で比叡山に上がり,座主義真に師事。嘉祥三年(八五〇)内供奉十禅師となり,仁寿三年(八五三)入唐。天台山長安などで修業し,天安二年(八五八)帰国。入唐の記録『行歴録』がある。翌年三井寺園城寺)を修造し将来した経典をおさめる。貞観十年(八六八)延暦寺座主。寛平二年(八九〇)少僧都となり,翌年没した。

 三  鎌倉新仏教の開祖たち
 筆者が高校生の時代であった、昭和四十年代の社会史の教科書では鎌倉仏教の成立について、堕落した平安仏教に代わって登場した仏教であるというのが定義で、当時の主流であると教えられた。開祖達は易行を主張し、人々もそれに同調して鎌倉仏教を信仰していたとされていた。しかし、現在の定義では鎌倉新仏教は異端であり、当時の主流は南都北嶺の顕密勢力であったとされている(黒田俊男の顕密体制論)。密教でも易行化が進められて、真言宗阿弥陀信仰が取り入れられた新しい流れが、覚鑁を祖とする近世の新義真言宗である。儀海はその流れの中にいた。儀海が生まれた、弘安二年(一二七四)には異端と弾圧された鎌倉新仏教の開祖たちの多くが没していた。開祖たちは仏法を人々に伝え広めるための苦難を乗り越えて生涯を送ったのである。現在の私たちの日常生活に接している仏教は鎌倉新仏教である。しかし、その多くが葬式仏教になってしまっていることに祖師たちはどのように思っているであろうか。
鎌倉仏教 日本の仏教史のなかで鎌倉時代仏教を特別視するのは近代以降のことである。特に、禅や浄土系の諸宗、日蓮宗など、この時代に端を発する諸宗や、その祖師の活動を〈鎌倉新仏教〉と呼んで、日本の仏教史の中でも特別優れたものとして評価することは、戦前から戦後にかけて長い間常識視されてきた。その特徴として、民衆中心であること、実践方法の単純化、宗教哲学的な深化、政治権力に対して宗教の自立性を主張したことなどが挙げられた。それに対して、南都北嶺仏教真言密教などは旧仏教とされ、新仏教の活動を阻害したり敵対したりする勢力と見なされた。このような見方は、一九七〇年代に黒田俊雄によって顕密体制論が提示されて大きく変わることになった。黒田は、当時の仏教界の主流はあくまで従来旧仏教といわれてきたものであり、これを顕密仏教と呼び、それにたいして、いわゆる新仏教は当時極めて勢力の小さな異端派に過ぎなかったと主張した。黒田以後、いわゆる旧仏教に関する研究が急速に進められるようになり、従来新仏教の特徴とさてきた民衆中心の教化や実践方法の単純化は旧仏教にも見られることが明らかにされ、新仏教と旧仏教という二分化が疑問視されるようになってきた。新仏教という用語を用いる場合でも、永尊の律宗教団を含むなど、新たな見直しが提案されている。さらに言えば、鎌倉時代仏教を特別視することにも必然性はなく、鎌倉仏教も他の時代の仏教の中で相対化して理解されなければならなくなってきている。
法然 長承二年(一一三三)~建暦二年(一二一二)浄土宗の開祖。名は源空法然は号。父は漆間時国。美作稲岡荘に生まれる。永冶元年(一一四一)荘園支配をめぐる内紛で討たれた父の遺言により九歳で僧となることを決意,十五歳で比叡山延暦寺に入寺,受戒する。十八歳で遁世して西塔黒谷に住み,天台の円頓戒を相承したが,『往生要集』を読んで以降しだいに浄土教に傾斜し,安元元年(一一七五)四十三歳で専修念仏へ転入した。以後,比叡山を下りて東山大谷など京都の所々に住み,武士・庶民だけでなく九条兼実など貴族の帰依をうけた。建久九年(一一九八)専修念仏を顕密仏教と別立することの意義を説いた『選択本願念仏集』を著した。法然の専修念仏は,念仏は阿弥陀が選択した唯一の往生行であるので,念仏以外では往生できないとして所業往生を否定し,念仏以外の造像起塔などの雑修雑信仰の宗教的価値を剥奪して,此岸におけるすべての人間の宗教的平等を説いた点に意義がある。このため延暦寺興福寺など顕密寺院は法然の専修念仏を偏執として弾圧を要求,建永二年(一二〇七)二月,後鳥羽院は専修念仏禁止を発令,法然の弟子,安楽・遵西が死罪に,法然は同年中には赦免されて摂津国勝尾寺に住し,さらに建暦元年(一二一一)京都への帰還が許されたが,翌年八十歳で死去した。
明庵栄西 永冶元年(一一四一)~建保三年(一二一五)鎌倉前期の僧。日本臨済宗の開祖。栄西は「ようさい」とも読み,千光法師・葉上房とも称す。備中の人。平治元年(一一五九)比叡山の天台教学を学ぶ。仁安三年(一一六八)入宋。重源に会い,ともに天台山万年寺に登り,帰国。文治三年(一一八七)再度入宋。インド行きを試みるがはたさず,帰国の船に乗ったが,温州瑞安県に漂着。天台山万年寺の虚庵懐敞に臨済禅を学び,伽藍の補修にも尽力。虚庵の法をついで建久二年(一一九一)帰国し,翌年宋の天童山に「千仏閣」の修造用材を送る。建久五年(一一九五)京都で布教するが,比叡山州都の妨害にあう。翌年博多に聖福寺を建立。九条兼実之ために『興禅護国論』を著す。正冶元年(一一九九)鎌倉にて北条政子の帰依をうけ,翌年正月,源頼朝の一周忌仏事をつとめ,寿福寺を開山。建仁二年(一二〇二)京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の建仁寺を建立。この間『日本仏教中興願文』を著し,戒律の厳守を主張。建永元年(一二〇六)重源のあとの東大寺大勧進職となり,建保元年(一二一三)権僧正となった。著書に『出家大綱』『喫茶養生記』など,墨跡に福岡市誓願寺蔵『盂蘭盆縁起』(国宝)がある。
親鸞 承安三年(一一七三)~弘長二年(一二六二)鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。父は日野有範。九歳のとき慈円のもとで出家し,範宴と号したという。比叡山で堂衆として修業した後,夢告により建仁元年(一二〇一)法然の門に入り専修念仏に帰依,綽空と号す。承元元年(一二〇七)比叡山興福寺の衆徒の念仏禁止要求をうけた朝廷の念仏弾圧により,藤井善信の俗名をあたえられて越後国国府に流罪となる。配流後,愚禿と称す。建暦元年(一二一一)赦免されたが同国にとどまり,健保二年(一二一四)妻恵心尼らを伴い関東への布教に旅立つ。以後,二〇年間にわたる布教に専念。この間,下野高田の真仏・顕智,下総横曽根の性真,同国蕗北の善信,常陸鹿島の順真,同国河和田の唯円,奥州大網の如信などを中心とする初期真宗教団が関東各地で成立した。この東国在住中に浄土真宗の根本教義を説く『教行信証』を著し,帰京後たびたび手を加えて完成をみた。帰京の年や恵心尼の関東同伴については諸説あり,定かではない。京都では『三怗和讃』『愚禿鈔』などの著述により門弟の教化につとめた。一二六二年十一月二十八日三条富小路善法坊で没し大谷に納骨される。のち東国門徒によって墓所が改修され,大谷本廟が営まれ,のち本願寺となる。弟子唯円が著した『歎異鈔』が,悪人正機説や他力本願など,親鸞の信仰やことばを伝えている。
道元 正冶二年(一二〇〇)~建長五年(一二五三)鎌倉前期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。号は希玄。父、源通親(一説に通具)母は藤原基房の娘。建暦二年(一二一二)出家して比叡山横川の首楞厳院の般若谷千光坊にとどまり,健保元年(一二一三)天台座主公円について得度,仏法道元と名のった。一二一八年建仁寺に赴き,明庵栄西門下の仏樹坊明全に禅を学んだ。貞応二年(一二二三)名全らと入宋。天童山の長翁如淨の法をついで,安貞元年(一二二七)帰国。しばらく建仁寺に身を寄せたが,人々に坐禅を強固に勧めたため,比叡山の衆徒に追われ建仁寺を出て,寛喜元年(一二二九)京都深草の安養院に住した。ついで天福元年(一二三三)藤原教家・正覚尼らの勧めで山城に7興聖寺を開き,只管打坐(ただひたすら打ち座る)・修証一如(修行と悟りはひ等しい)の禅をとなえた。寛元元年(一二四三)波多野義重の招きで越前志比荘に移り,宝治元年(一二四七)大仏寺を永平寺と改める。この時からい一段ときびしい修行に励み,当初となえた在家成仏や女人成仏よりも,出家至上主義に傾いていく。同年北条時頼の招きにより鎌倉に赴くが,翌年永平寺に帰り,やがて永平寺を孤雲壊奘に譲り,京都で死去した。でしはほかに詮慧・僧海・寂光などがいる。孝明天皇から仏性伝東国師明治天皇から承陽大師の称号を贈られた。著書は『正法眼蔵』『普勧坐禅儀』『永平清規』(『典座教訓』をおさめる)『学童用心集』『宝慶記など。
日蓮 貞応元年(一二二二)~弘安五年(一二八二)鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。号は蓮長。安房の人。父母は荘官層といわれる。十二歳にして近郊の天台寺清澄寺に入る。のち鎌倉・京畿への留学を経て法華至上主義を確信。建長五年(一二五三)同寺にて立宗を宣言。以後鎌倉を中心に法華信仰を宣楊するとともに,文応元年(一二六〇)幕府に『立正安国論』を提出し,安国実現のために
念仏禁止をもとめた。しかし,そのはげしい他宗批判は既成教団の反発を招き,幕府からも危険視されて一二六一年伊豆流罪,一二七一年佐渡流罪など,様々な法難をよびおこした。日蓮はそれらの受難の体験を『法華経』普及のエネルギーに転化させた。佐渡で著した『開目鈔』と『観心本尊抄』は,その新たな信仰世界の確立を示すものであった。文永一一年(一二七四)佐渡流罪赦免後,鎌倉で平頼綱と会見。蒙古襲来を防ぐための密教祈祷の停止を求めるが,いれられず,甲斐身延に入山。その後山中にとどまり,『撰時抄』『報恩抄』などの重要著作の執筆,弟子の育成,手紙を通じての信徒の激励などに専念した。一二八二年療養のため常陸の温泉に向かったが,健康悪化のため武蔵の池上宗仲宅で目的を断念。日昭ら六人を本弟子(六老師)に指定して死去した。墓所は遺言により身延に設けられ,当初で本弟子が輪番で守った。大正一一年(一九九二)立正大師号を贈られる。
一遍 延応元年(一二三九)~正応二年(一二八九)鎌倉中期の僧。時宗の開祖。幼名松寿丸,法名髄縁・智真。諡号円照大師・証誠大師。父は河野通広。十歳で出家して浄土宗西山派聖達や華台に学び,信濃善光寺参籠や伊予窪寺での修業を経て,「十一不二頌」に代表される独自の宗教的悟りに達し,みずから一遍と称した。これ以降「南無阿弥陀仏,決定往生六十万人」という名号札を配り(賦算),全国各地に念仏を勧進した(遊行)ので遊行上人とよばれた。踊念仏による布教で教線は拡大し,賦算は二百五十万人,門弟は約千人に及んだという。兵庫県真光寺に廟所がある。体系的な著作はないが『一遍聖絵』や『一遍上人伝絵』が教化のようすを伝え,門弟の聞き書きを収録した『播州法語集』『一遍上人語録』などからその思想がうかがえる。
叡尊 建仁元年(一二〇一)~正応三年(一二九〇)鎌倉中期の西大寺律宗の僧。号は思円。大和の人。はじめ醍醐寺などで真言宗を学んだが,真言の行者が戒律をおろそかにしていることに疑問を感じ,嘉禎二年(一二三六)覚盛・円晴・有厳とともに東大寺法華堂で自誓受戒をした。以後,戒律と真言密教の共存が西大寺流の特徴となる。奈良西大寺を拠点として戒律復興運動や畿内の古代寺院の復興などの勧進活動に奔走する一方,奈良坂・清水坂などで文殊信仰にもとつく非人・癩者救済を実践した。叡尊の非人救済の中心となったのは,食物,乞食の道具類を非人に施すことと,斎戒を授けることによる非人
の生活統制である。また奈良法華寺などの尼寺を再興し,正式の受戒の作法にもとづく尼を誕生させた。弘長二年(一二六二)北条時頼の招きで一時鎌倉へも赴いた。また蒙古襲来に際しては,宇治川の殺生禁断を条件に異国調伏の祈祷を行った。著書に『感身学正記』などがある。
忍性 健保五年(一二一七)~嘉元元年(一三〇三)鎌倉中期の西大寺律宗の僧。号は良観。大和の人。延応元年(一二三九)叡尊と出会って受戒し弟子となる。以後,戒律の復興に努める一方,文殊信仰にもとつく非人・癩者救済運動に奔走。建長四年(一二五二)関東に赴き,常陸三村寺に住んだ。弘長二年(一二六二)以降北条氏の信頼を得て鎌倉に進出,極楽寺を拠点として非人救済・作道・殺生禁断などの慈善事業に努めた。

 四  東国における仏教史の推移
東国における仏教の推移を考える時、常陸国下野国上野国における古代から中世にかけての仏教の歴史について知ることが重要であるように思える。
 常陸国は京からみても特別な位置にあった。東海道の果ての地であり、武神として鹿島社が祭られ、王城鎮護の神とされていた。田積四万町は陸奥国につぐ大国であり、親王任国とされたことにも明らかなように、常陸の受領となることを中・下貴族はひとしくのぞんだ。また遠流の国として、不遇な貴族が流され、都の文化をもたらした所でもある。鎌倉時代常陸は特別な国であったと思われる。奈良西大寺にあった律宗の忍性が下って根拠地としたのがここの三村寺である。父の墳墓のある陸奥に旅した一遍が鎌倉に入る前に布教を試みたのも常陸である。その他にも日蓮宗禅宗も入ってきて、常陸は鎌倉と並んで新仏教のすてがそろって盛んな布教をおこなった土地である(五味文彦)。『沙石集』の著者、無住も三村寺に住んだことがある。  
 下野国もまた特別な国であった。下毛野朝臣古麻呂は下毛野国造の一族で、大宝元年(七〇一)に制定された大宝律令の編者のひとりである。地方豪族の出身でありながら、藤原不比等の信任篤く、正四位下にのぼり、兵部卿、式部卿を歴任した。下野薬師寺の創建は天智天皇九年(六七〇)とも、大宝三年(七〇三)とも伝えられている。東大寺観世音寺と並ぶ三戒檀のひとつが下野薬師寺に設置されたのも、古麻呂の中央政界における政治力の影響であるという。藤原氏(中臣氏)は元々鹿島神宮の祭祀者の家系であったという説がある(鹿島神宮には国譲りで活躍したタケミカヅチが祭られている)。また群馬県吉井町にある、多胡碑の碑文に「…中略…右大臣正二位藤原尊」とあり、碑文中に和銅四年(七一一)三月九日甲寅とあることをみても藤原氏との深い繋がりをうかがえるとおもわれる。
下野薬師寺は前法王太政大臣禅師道鏡が、位階をことごとく剥奪され、この寺の別当として左遷されてきた。宝亀元年(七七〇)八月のことであった。一介の修行僧から位人臣を極め、天皇位まで狙った怪僧道鏡も、二年後の宝亀三年(七七二)四月失意のうちに、その波乱の生涯をこの地で閉じた。
最澄の初期天台教団を支えた僧に道忠がいる。受戒制度を整えるために度重なる困難を乗り越えて来日し東大寺戒壇院などを設置した戒律の師、鑑真〈唐・嗣聖五年(六八八)~日本・天平宝字七年(七六三)〉の高弟、「持戒第一の弟子」と称され、『元亨釈書』などに鑑真の弟子と記された日本人は道忠ただ一人であった。天平宝字五年(七六一)下野薬師寺戒壇を設立するに際した派遣され、東国に定着したのではないかという推測されている。道忠の東国移住は、師寂して後の鑑真思想具現のための帰国ではなかろうか(『熊倉浩靖』)。
最澄と東国の重要な関わりは、延暦一六年(七九七)比叡山上に一切経を備えようとしたおりの道忠の助写である。この一切経書写には大安寺僧聞寂なども協力したが、『開元釈経録』によれば一〇七六部五〇四八巻に及ぶ一切経の四割、二千余巻は道忠による助写だった。最澄法相宗の徳一との間に五年間に及ぶ「三一権実論争」を展開した。中国唐代の『法宝』と『慧沼』との間に交わされた論争を、日本に引きついだもので、天台宗華厳宗の立場は〈三乗方便一乗真実〉、法相宗の立場は〈三乗真実一乗方便〉である。それは東国における徳一の布教と道忠の門弟達による布教活動による軋轢となって、最澄の東国巡錫の一因ともなった。
徳一 生没年不詳 平安時代前期、陸奥国会津在住の法相宗の僧生没年に諸説あるが、天平宝字四年(七六〇)ごろ~承和七年(八四〇)ごろの人とおもわれる。のち、恵美押勝の子とされた。若年の際、奈良(おそらく東大寺)で学び、二十歳ごろ東国へ移った。師は修円と伝えられるが疑問がある。弘仁六年(八一五)、空海は弟子康守を東国の諸方面へ遺わし、徳一にも香をそえて書簡をおくり、新しい真言の書籍を写し、広めることを依頼した。徳一は空海に対し、真言教学の十一疑問をあげた『真言宗未決文』を著した。同八年ごろから最澄との間に激烈な論争を行い、天台教学・一乗思想を批判し、法相教学・三乗思想の真実性を主張し、『仏性抄』一巻、『中辺義鏡』三巻、『慧日羽足』三巻、『遮異見章』三巻、『中辺義鏡残』二十巻その他を著した。三一権実諍論とよばれる。著書は、『止観論』を含めて十七種の名が伝えられるが、『真言未決文』『止観論』以外は散佚した。
古代の上野国下野国は多くの僧が仏教の布教活動に専念できる豊かな地域であったのである。道忠の門下では上野国浄土院(緑野寺)系の円澄・教興・道応・真静、下野国大慈寺(小野寺)系の広智・基徳・鸞鏡・徳念がいる。その中では円澄(第二代天台座主)と円仁(第三代天台座主)はともに天台座主となっている。最澄の死後天台教団の責任者(初代天台座主)となったのも相模国の出身の義真であった。最澄入唐の際に通訳として同行し、最澄と共に天台および密教を直接唐の師について学び、具足戒および菩薩戒を受けて帰国した。円仁は、著名な『入唐求法巡礼行記』と題する記録を遺している。そして、天長六,七年ごろ(八二九―八三〇)に東北地方を巡錫したことがあった。『三千院本伝』、『通行本伝』がともに伝えているところである。しかし、この伝えを歴史的事実とはみなさない説もある。
下野国薬師寺平安時代に入り、国家仏教の衰退とともに、天台宗など新興宗派が興り、比叡山などに戒壇を置きそれぞれが独自に戒をさずけるようになった。それに伴い、戒壇院もその役目が失われ、九世紀中ごろ、大火に見舞われ、伽藍の中心が焼失した。十一世紀には荒廃し鎌倉中期に再興の動きがあったが長続きはしなかった。下野薬師寺の再興に努めたのが慈猛である。
慈猛 じみょう 建暦元年二月(一二一一)~健治三年(一二七七)。鎌倉時代の僧。字は良賢。密厳上人・薬師寺長老・留興上人とも称される。はじめ比叡山に登り出家して入仏房空阿と称し、隆澄に、恵心流を学び、顕豪に旦那流をまなんだが、のち唐招提寺良遍に律を学び下野薬師寺に下ったという。一方、寛元二年(一二四四)高野山金剛三昧院で上人潅頂を受け密教を学び、慈猛と改め、さらに願行上人憲静とともに意教上人頼賢から東密三宝院流を、また浄月上人から同流を受けた。後世その流れを慈猛流・慈猛意教流などと称する。慈猛は薬師寺を中心に活動し、関東で彼から律・密教を学ぶ僧が多く、特に下野小俣鶏足寺学頭頼尊は久しく就学し、文永五年(一二六八)伝法潅頂を受け慈猛意教流を相承した。以後鶏足寺は同流の本寺となり、同流は下野・上野・武蔵を中心に広く関東に伝わり、同地における真言宗の展開に大きな役割を果たした。後宇多天皇より留興長老の号を賜わった。健治三年(一二七七)四月二十一日没。六十七歳。なお、これまで慈猛と密巖上人を別人とする書が多いが、無住は直接慈猛に会った話を『雑談集』四に載せて、「下野ノ薬師寺ノ長老密厳故上人」と記している。よって同人とすべきであろう。
 法然門下の親鸞は越後に流された後、罪をとかれても京には戻らず、笠間稲田に庵を結び、東国での布教に専念した。親鸞四十五歳、健保五年(一二一七)~嘉禎元年(一二三五)の約二十年間の長い年月であった。又、『教行信証』の草稿はこの庵で完成させたという。それを支えたのは鎌倉御家人笠間時朝とその一族であったと思われる。
 次に年代順に東国に影響を与えた事柄を略記する。

健保五年 (一二一七) 親鸞、越後より関東に来る?
貞応元年 (一二二二) 日蓮、生る。
元仁元年 (一二二四) 親鸞教行信証』を著す。
       一、「善人なをもちて往生をとぐ、いうはんや悪人をや。しるを、世のひとつねにいはく、「悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや」と。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるをまいて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり、よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と仰さふらひき。〔歎異抄
嘉禄二年 (一二二六) 頼瑜、生る。一二月二八日 無住、生る。
安貞元年 (一二二七) 道元帰朝し、曹洞宗を伝う。
貞永元年 (一二三二) 明恵(高弁)没する。
文暦元年 (一二三四) 幕府、専修念仏を禁ずる。
嘉禎元年 (一二三五) 親鸞、関東より帰洛か?
延応元年 (一二三九) 一遍、生る。
建長二年 (一二五〇) このころ、道元正法眼蔵』を著する。
      又、或人スヽミテ云、「仏法興隆ノ為、関東ニ下向スベシ。」答云、不然。若仏法ニ志アラバ、山川江海ヲ渡テモ来テ可学。其志ナカラン人ニ、方向テスヽムトモ、聞入シコト不定也。只我ガ資縁ノ為、人ヲ抂惑セン、財宝ヲ貪ラン為カ。其レハ身ノ苦シケレバ、イカデモアリナント覚ル也。一日弉問云、叢林ノ勤学ノ行履ト云ハ如何。示云、只管打坐也。或ハ楼下ニシテ、常坐ヲイトナム。人ニ交リ物語ヲセズ、聾者ノ如ク瘂者ノ如クニシテ、常ニ独坐ヲ好ム也。
      〔『正法眼蔵随聞記』〕
建長四年 (一二五二) 忍性、関東に下る。十二月四日、常陸三村寺に入る。
建長五年 (一二五三) 四月、日蓮、鎌倉に移り法華経を唱う。道元、没する。
文応元年 (一二六〇) 日蓮、『立正安国論』を著し、時頼に進上する。剣阿、生る。
      若し先ず国土を安んじて、現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻らし、悤いで対冶を加えよ。所以は何ん。薬師経の七難の内、五難忽ちに起り二難猶残せり。所以「他国侵逼の難、自界叛逆の難」なり。大集経の三災の内、二災早く顕われ一災未だ起こらず。所以「兵革の災」なり。金光明経の内、種種の災過一一起ると雖も、「他方の怨賊国内を侵掠する」、此の災
      未だ露われず、此の難未だ来らず。仁王経の七難の内、にして一
      難未だ現ぜず。所以「四方の賊来って国を侵すの難」なり。加之、「国土乱れん時は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」。今此の文に就て、具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ、万民多く亡ぶ。先難是れ明かなり、後災何ぞ疑わん。(中略)汝、早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば即ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊なくんば、身は是れ安全にして、心は是れ禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」。
      〔『立正安国論』〕
弘長元年 (一二六一) 忍性、鎌倉に入り、極楽寺招請さる。
弘長二年 (一二六二) 二月、西大寺叡尊、鎌倉に入る。十一月親鸞、没する。
      五月一日、諸人の所望により、今日よりまた古述を講ぜらる。また、食を儲け、両処の悲田に行き向い、食を与う。ならびに十善戒を授く。
      〈忍性、浜悲田に向う。頼玄、大仏悲田に向かう。〉〔関東往還記〕(頼玄は三村寺長老)
文永四年 (一二六七) 八月、審海〔寛喜元年(一二二九)~嘉元二年(一三〇四)〕下野薬師寺より、称名寺に入寺する。
文永十年 (一二七三) 意教上人、鎌倉にて没する。八十歳。
文永十一年(一二七四) 日蓮久遠寺を創建する。十月、文永の役
      蒙古人対馬・壱伎に来襲し、既に合戦を致すの由、覚恵注申するところなり。早く来二十日以前、安芸に下向し、彼の凶徒寄せ来らば、国中の地頭御家人ならびに本所領家一円地の住人等を相催し、禦戦せしむべし。更に緩怠あるべからざるの状、仰せによって執達くだんの如し。
  文永十一年十一月一日     武蔵守 在判(北条長時
                 相模守 在判(北条時宗
東寺百合文書〕文永十一年(一二七四)十一月一日関東御教書
健治三年 (一二七七) 慈猛(密厳上人)没する。
弘安二年 (一二七九) 無住、『沙石集』執筆開始、四十六歳。儀海生る。
弘安四年 (一二八一) 閏七月、弘安の役
      七年、(中略)方慶と忻都・茶丘・朴球・金周鼎等発し、日本世界村大明浦に至る。通事金貯をしてこれに激論せしむ。周鼎先ず倭と鋒を交え、諸軍皆下りて与に戦い、郎将康彦・康師子等これに死す。六月。方慶・周鼎・球・朴之亮・荊万戸等、日本兵と合戦し、三百余級を斬る。日本兵突進し、官軍潰え、茶兵馬を棄てて走ぐ。王万戸復たこれを横撃し、五十余級を斬る。日本兵すなわち退き、茶丘僅かに免る。翌日また戦いて敗績す。軍中また大いに疫し、死者凡そ三千余人。忻都・茶丘等、累戦利あらず、且つ范文虎の期を過ぎていたらざるをもって、回軍を議して曰く、「聖旨、江南軍と東路軍をして、必ずこの月望に及びて一岐島に
会せしむ。今南軍至らず、我軍先に到りて数戦す。船腐り糧尽く。それ将に奈何せんとす」と。方慶黙然たり。旬余また議すること初の如し。方慶曰く、「聖旨を奉じて三月の糧を齎らす。今一月の糧尚在り。南軍の来るを俟ち、合に攻めて必ず之を滅ぼすべし」と。諸将敢えてまた言わず。八月。大風に値い、蛮軍皆溺死す。屍は潮汐に随いて浦に入り、浦これがために塞がり、践みて行くべし。遂に軍を還す。〔高麗史〕巻一百四 金方慶伝
弘安五年 (一二八二) 十月、日蓮、没する。
弘安六年 (一二八三) 無住の『沙石集』成る。この頃、吉田兼好生る。【一円】嘉禄二年(一二二六)~正和元年(一三一二)臨済宗の僧。沙石集の著者。鎌倉の人。俗性は梶原氏。無住と号し、大円国師と諡された。
弘長二年(一二六二)尾張の長母寺に来住。叡尊が関東下向の時出迎える。
弘安七年 (一二八四) 北条時宗、没する。二月審海、称名寺条々規式を定める。
弘安八年 (一二八五) 十一月、霜月騒動安達泰盛、五十五歳、一族滅ぶ。
正応二年 (一二八九) 八月、一遍(智真)没する。
三月下旬『とはずがたり』作者、後深草院二条(中世で最も知的で魅力
的な悪女)鎌倉に入る。七月まで病臥。
八月、新八幡放生会を見る。将軍惟康親王を廃されて上京するのをみる。
十月、久明親王着任の準備指導のため、管領平入道頼綱邸及び将軍御所
に赴く。飯沼新左衛門邸の連歌に招かれる。
十二月、川越入道の後室に誘われ武蔵国川口ヘ下る。越年。
正応三年 (一二九〇) 二月十余日、善光寺へ出立。高岡の石見入道仏阿の邸に滞在。
八月十五日、浅草観音に詣でる。武蔵野の歌枕を訪れる。
九月十余日、飯沼判官と別れの歌を贈答、帰途熱田に寄る。
正応三年 (一二九〇) 八月、叡尊、没する。九十歳。能信、生る。

五  御内人平頼綱
平頼綱は、鎌倉時代後期の十四世紀後半の永仁元年(一二九三)に幕府内で強大な実権を握った。その立場は、執権を継承する北条氏の本家である得宗家の被官にすぎなかった。いわゆる御内人であり、その筆頭であった。北条泰時〔寿永二年(一一八三)~仁冶三年(一二四二)六十歳〕のころからしだいに実力をつけた御内人は、経時〔元仁元年(一二二四)~寛元四年(一二四六)二十三歳〕・時頼〔安貞元年(一二二七)~弘長三年(一二六三)三十七歳〕を経て時宗〔建長三年(一二五一)~弘安七年(一二八四)三十四歳〕の代になると、御家人に対抗し得る勢力となった。御家人は将軍の直接の家来であり、北条氏を除けば、そのころは安達泰盛が代表格であった。この時代の内管領平頼綱である。弘安七年(一二八四)に時宗が亡くなった後、執権は子の貞時〔文永八年(一二七一)~応長元年(一三一一)四十一歳〕が継いだ。安達泰盛平頼綱との争いに敗れて滅び去った。ここで平頼綱が少年の貞時を擁して独裁的な権力を振るう。しかし九年後の正応六年(一二九三)、貞時のために滅ぼされた。頼綱はあまりに独裁的に政治を左右したため、当時の貴族の日記に「一向執政し、諸人恐懼のほか他事なく候」(『実躬卿記』)とあるように諸人に恐れられたという。その結果、現代でも、頼綱の政治は恐怖政治であったとされるがどうであろうか。一方、平頼綱日蓮との交渉が多くしられている。鎌倉で『法華教』の教えを説く日蓮を逮捕し、佐渡国に流した直接の責任者が頼綱である。三年後に許されて鎌倉に帰った日蓮に、蒙古襲来の時期の予測を、幕府の公的な代表者としてたずねたのも頼綱であった。頼綱は侍所の所司という職にあり、政治的な問題として日蓮を扱ったのであるが、信仰の問題が色濃くかかわっているのは明らかである。さらに頼綱は、横曽根門徒に経済的援助をして、親鸞の主著である『教行信証顕浄土真実教行証文類)』を出版させている。横曽根は下総国言飯沼地方にあり、頼綱に直接結びついていた。兄宗綱をしのいで権力を振るった頼綱の次男助宗〔文永四年(一二六七)~永仁元年(一二九三)二十七歳〕は飯沼を称し、飯沼地方の領主であったと考えられるからである(今野雅晴「平頼綱と『教行信証』の出版」)。頼綱は嫡子宗綱よりも、この助宗に目をかけていた。気ままに育った助宗は百姓たちには幼いころから残酷であり、人をはばからぬ専横・驕慢なところはあったが、京の女性にはやさしく、和歌もよく解したのである。
 北条時宗のあとの得宗北条貞時の成人にともない、平頼綱は貞時権力の強化にとっては障害となった。頼綱の嫡男宗綱は「頼綱が次男の飯沼助宗を将軍に立てようとしている」と密告し、正応六年(一二九三)四月二十二日、北条貞時平頼綱・助宗父子を誅殺した。
いわゆる平禅門の乱である。頼綱の助宗偏愛に端を発していようが、得宗北条貞時の側にもそれを利用して平頼綱をおさえようとした面もあったろう。平宗綱は佐渡に流され、赦免されて内管領になったようであるが、のちまた罪ありとして、上総に配流されている。こうして得宗被官として権勢を振るった平氏の頼綱系にかわって光綱系の長崎氏が得宗被官の代表者となる。鎌倉末期の御内政治の主導権を握ったのは、光綱の子高綱(入道円喜)である。(『川添昭二』)
正応六年(一二九三)八月五日、朝廷は永仁と改元した。改元の理由は、四月十三日の「関東大地震」に加えて、この年の六月~八月の大旱魃と前年二月十一日の「木星が軒轅女主〈けんえんじょしゅ〉星(しし座のα星)を犯す」(『伏見院御記』)という天変であつた。(『続史愚抄』『一大要記』)。この関東大地震は、治承元年(一一七七)に畿内を襲った大地震東大寺の鐘と大仏の螺髪〈らほつ〉の落下)以来のものといわれ、鎌倉の堂舎や人宅がことごとく転倒し、幾千人もの死者が出て、建長寺が倒壊炎上した。由比ケ浜の鳥居付近では、一四〇人もの死体が転がっていたと、当時鎌倉に在住していた京都醍醐寺の僧親玄僧正〔建長元年(一二四九)~応長元年(一三一一)四十一歳〕が書き遺している(『親玄僧正日記』)。また、大地震と山崩れで人家が倒壊し、関東全域で二万三〇三四人の死者が出て、大慈寺は倒壊し、建長寺は炎上したとされている(『武家年代記裏書』)。さらに、その後二十一日まで、強弱折り交ぜての揺り返し(余震)が続き(その後、断続的になる)、人々の不安が高まり、寺社では愛染王護摩や大北斗法の読経などが行われた。(『親玄僧正日記』)。この地震は、推定マグニチュード七・九の極浅発(直下型)地震とかんがえられ、震源地は相模の陸地(丹沢付近か)と推定され、相模西北部を震源としマグニチュード七・九の大正十二年(一九二三)の関東大地震に匹敵する大地震と推定される。ところが、この大地震直後の二十二日に、幕府内の大事件が発生する。平禅門(平頼綱)の乱である。貞時は謀反を理由に武蔵七郎(北条一門か)を討手にさしむけ、経師ヶ谷・葛西ヶ谷などの平頼綱とその子飯沼助宗の屋敷を次々に襲撃させ、頼綱・助宗をはじめとして九三人を殺害した。この中には、頼綱邸で乳母に預けられていたと考えられる貞時の娘もいた。この事件は内管領平頼綱より執権の北条貞時が実権を奪取し、得宗専制を確立する契機となったものとして評価されているが、前記の地震災害と密接に関連した政治事件として興味深いものがある。当時、この乱は、大地震と並んで衝撃的に受け止められ、頼綱の専横と驕りが、滅亡を招いたと評されている。貞時は、母〔覚山尼、建長四年(一二五二)~嘉元三年(一三〇五)五十五歳〕も妻も安達氏の出身で、頼綱に滅ぼされた安達氏に同情を抱きつつ成人し、頼綱の専横を憎み奪権の機会をうかがっていたことは想像に難くないが、事件の発端は大地震の世情不安の中で偶発的に発生したものと考えられる。大地震の発生と同時に、権勢者平頼綱は身の危険を感じて屋敷内の防備を固め、それが執権北条貞時の目に謀反準備と映じ、世情不安のなかで飛び交う情報がこれを増幅した。一種の集団ヒステリー状況のなかの極度の疑心暗鬼が、貞時をした頼綱誅殺の先制的軍事発動に走らせたと考えられる(峰岸純夫「永仁元年関東大地震平禅門の乱」『中世 災害・戦乱の社会史』)。

 六  中世と阿弥陀信仰
中世は仏教の時代である。阿弥陀への信仰は飛鳥時代からみられるが、平安時代後期以後、特に浄土教が興盛し、鎌倉時代に浄土宗・浄土真宗(または真宗)・融通念仏宗時宗などの諸宗派が成立し、浄土教は日本仏教の一大系統を形成するにいたった。『往生要集』の源信阿弥陀聖・市聖と呼ばれた空也がその先駆けである。聖の多くは単独であるが、集団で居住する場所を〈別所〉と呼び、大原や高野山が著名で、中世には高野聖や遊行聖などが活躍した。
末法 仏教における時代観ともいうべき〈正法〉〈像法〉〈末法〉の三時思想の第三時。教えだけが残り、人がいかに修業して悟りを得ようとしてもうてい不可能な時代をいう。〈末代〉とも呼ばれる。仏法が衰退するこの末法の時代は、吉蔵の『法華玄論』10。正像義などによれば一万年とされ、その後、教えも完全に滅びる〈法滅〉をむかえるとされる。日本ではすでに奈良時代に現れ、しだいに末法意識が高まっていった。奈良時代には慧思の『立誓願文』に基づく正法五〇〇年、像法一〇〇〇年説も行われたが、平安時代以降は吉蔵の『法華玄記』などに基づく正法一〇〇〇年、像法一〇〇〇年説が一般化し、唐の法琳(五七二~六四〇)『破邪論』上に引く『周書異記』の釈迦の入滅を「周の穆王の五十二年、壬申の歳」(紀元前九四九)とするのに従って、永承七年(一〇五二)より末法の時代に入ったとされ、『扶桑略記』永承七年一月二十六日にも「今年始めて末法に入る」と見える。それを裏づけるように、そのころから災害や戦乱などが続発したため、末法意識が特に強まり、この末法の世を救う教えとして浄土教が急速にひろまることとなった。
永観 えいかん 長元六年(一〇三三)~天永二年(一一一一)〈ようかん〉とも読む。院政浄土教の代表的な人物。父は文章博士源国経。十一歳のとき禅林寺の深観に師事。翌年東大寺で具足戒を受け、有慶・顕真に三論を学び諸宗を兼修する。早くより念仏の行をはじめ、三十代で東大寺の別所である山城国相楽郡光明寺に隠棲して念仏を専らにする。延久四年(一〇七二)、四十歳で禅林寺に帰住。康和二年(一一〇〇)より三年間東大寺別当を勤めたほかは、称名念仏衆生教化・福祉活動を通じて浄土教の流布に努め、法然のも大きな影響を与えている。主著に『往生拾因』があり、その主張を実践化した往生講の作法として『往生講式』を製作している。なお、禅林寺は彼の名をとり〈永観堂〉と通称される。
 永観堂禅林寺には有名な「見返り阿弥陀如来像」がある。この寺の本尊である。阿弥陀仏が自分の左肩越しに後ろを振り返っておられる珍しいポーズの造像である。臨終の際に阿弥陀が来迎して極楽浄土にいざなう時に、間違いなく後をついてこられるか振り返るという慈愛に満ちた姿をさし示すともいわれている。一方、禅林寺阿弥陀仏像には次のような伝説がある。
 ある夜、永観は、須弥檀の周りを念仏行道していた。ふと気がつくと、自分を先導する影がある。それは、まぎれもなくご本尊の阿弥陀仏である。永観は驚いて立ちすくむ。すると阿弥陀仏が後ろをふりむいて、「永観おそし」と言われた。寺伝によれば永保二年(一〇八二)二月十五日のことであるという。その瞬間の阿弥陀仏の姿を刻んだのがこの「見返り阿弥陀如来像」とある。しかし、永観が東大寺を去る時に、如来堂の阿弥陀仏が永観の夢枕に立たれて、「そなたが禅林寺に帰るなら、わたしもついて行く」と告げられ、永観が禅林寺に背負い帰る時に、東大寺の僧達がこの阿弥陀如来像を奪い帰さんとしたが、どうしても永観の背を離れなかった。東大寺の僧達もあきらめたという。この阿弥陀仏はよほど永観が好きであったのであろう。一説によると、永観は毎日一万遍、後には六万遍の念仏を唱えたという。その結果、晩年には舌も乾き喉も涸れて声が出なくなった。それで仕方なく、最後には観想念仏に変えたという。東大寺阿弥陀如来像が「見返り阿弥陀如来像」であったとはおもわれない。
阿弥陀仏と永観とは深い縁でむすばれていた。阿弥陀仏と永観とが「一心同体」になっていたのである。親子のつながりにも似た深い愛情の絆、これが浄土門仏教が形成される過程には必要であつた。私事であるが、母方のこともあり曹洞宗に宗旨替えしたが、父方は富山の門徒である。父の兄が「南無阿弥陀仏」と唱える声が「なんまいだ」と私にはきこえた。永観と阿弥陀仏の話については、本稿作成以前に深く感動し永観について資料を集めていたが、覚鑁が永観に影響を受けているということまでは知らずにいた。ちなみに真言宗の古義と新義を分ける分岐点にいたのが覚鑁である。何かの縁であろうか、私にとって弥陀は近しく感じるのである。
覚鑁】 嘉保二年(一〇九五)~康冶二年(一一四三)真義真言宗開祖。号を正覚房、諡号興教大師、また鑁上人・密厳尊者とも呼ばれる。肥前国佐賀県)の出身。伊佐氏。十三歳で仁和寺寛助の室に投じ、寛助・定覚より密教を学ぶ。翌年、南都興福寺で慧暁より倶舎・唯識を、東大寺覚樹院で華厳、同寺東南院で三論を学んだ。十六歳で得度し、十八契印・両部大法・護摩秘軌などを精勤した。二十歳、東大寺戒壇院で具足戒を受け、その年、高野山に登り、阿波上人青蓮に迎えられ、ついで最禅院明寂に師事して虚空蔵求聞持法を合計九回修法。その間、仁和寺成就院道場で寛助から両部潅頂を受け、また醍醐理性坊賢覚(一〇八〇~一一五六)から五部潅頂を受けた。これら潅頂や求聞持法の結願には奇瑞が現れ悉地を得たという。鳥羽上皇(一一〇三~一一五六)の帰依を得て、〈大伝法院〉を建立し、密教教義の教育研鑽の儀式である伝法会を復興した。東密台密の事相を総合して伝法院流を開いた。また平安末期の浄土思想を密教的に裏づけた密巖浄土思想や真言念仏、一密成仏思想を表明。四十歳の時、金剛峯寺高野山)座主となったが、翌年、座主職をめぐる争いを厭うて密厳院に籠り、千日無言行を修した。荘園をめぐる金剛峯寺方との争いを避けて四十六歳の時、高野山から根来寺に移り、四十九歳、根来寺で入寂。著書に『五輪九字明秘釈』があり、詳伝に『伝法院本願覚鑁上人縁起』がある。
【頼瑜】らいゆ 嘉禄二年(一二二六)~嘉元二年(一三〇四)真言宗の僧。字は俊音、初名豪信、俗姓土生川氏。紀伊和歌山県)那賀郡の豪族の出身。初め城南の玄心に得度受戒。奈良で顕教を学んだ後高野山仁和寺醍醐寺などで真言の事相・教相の二相を修学。弘安三年(一二八〇)中性院流を開く。金剛峯寺高野山)の徒と対立し、大伝法院と密厳院を根来に移し、新義真言宗を別立。古義の宥快(一三四五~一四一六)、杲宝(一三〇六~一三六二)などに比される大学匠。主著作に『大疎指心鈔』『真俗雑記問答』『秘鈔問答』『薄草子口決』など。
 頼瑜は覚鑁の根来の流れを継承し、発展させた中心人物である。鎌倉仏教の各祖師の中に伍し、日蓮宗の開祖である日蓮とほぼ同じ時代を共有した。この時代には、フビライ汗の率いるモンゴル軍が二度にわたって来襲した。文永の役弘安の役である。頼瑜の厖大な著述の中で、人間頼瑜とその周辺を知るには『真俗雑記問答鈔』が重要である。「真言宗全書」本には克明な索引が附されており、頼瑜自身の和歌や、浄土・禅宗に対する批判なども開陳されている。大伝法院(根来寺)教学の基礎確立のために情熱を注いだことは、激動の鎌倉時代を反映したとも受け止めることができよう。宗祖弘法大師への思慕と、その教学の展開及び子弟教育は覚鑁の使命であったが、頼瑜も同じ請願のもとに活躍した(『福田亮成』)。
 儀海に関する記述は、永仁三年(一二九三)に紀州根来大谷院で『十住心論愚草』の草本を以て書写したことが、史料上の初見となっている。
元徳二年(一三三〇)霜月廿日夜於紀州根来豊福寺中性院書畢 権律師儀海 
儀海の出自については明らかではないが、名古屋大須真福寺所蔵の経典の奥書によれば弘安二年(一二七一)の生まれと推定され、この時十六歳位であったと思われる。頼瑜の最晩年には根来寺で師事した事と思われるが、その期間については定かではない。頼瑜の法弟である鎌倉大仏谷の頼縁には教えを受け、それは『潅頂秘訣』奥書に、「元徳元年(一三二九)十二月三日、於武州多西郡高幡不動堂弊坊書写畢、右秘訣者先師最後対面之時、奉伝授之畢、誠是衣数年之懇切令感得之畢、」とあるので、この時までは子弟の関係が続いていたと思われる。
 頼縁についは、三宝院伝法血脈に「第廿八代祖頼縁法印徳行幷附法弟子 頼縁法印鎌倉佐々目谷居住也。自弘安二年至永仁三年於根来寺中性院随頼瑜法印傳事相之源極。習教相之淵底之人也。」とある。頼縁の史料はあまり他に無い、真福寺文庫撮影目録上・下巻にある奥書から年表として作成した。これより推定すると、頼縁は建長五年(一二五三)の生まれであろう。儀海とは二十七歳も離れており親子ほどの差がある。
 頼縁に関する真福寺文庫撮影目録に見られる史料を次に挙げておく。

健治三年(一二七七)六月比為伝法院御社堅義記之了 堅者縁成幡房公 改名頼縁法印
判得略云 抑堅者昔在二明宗聚蛍雖年舊今入之密室積雪猶日浅然今聞决両條之疑問鴻写之仲天見遣五重之難勢似麒麟之駑鞭猶加重難定尤所滞歟付仲所答申者自証離言之秋月照権現垂跡之闇所問起者八識発心之春華開学侶讃仰之徳風両條共得分離分明申矣 一交畢
建冶三年(一二七七)十二月廿一日醍醐寺中性院書写了 求法沙門頼縁 交合了
永仁二年(一二九四)甲午臘月廿九日巳時書写畢於根来寺依播磨阿闍梨御房誂首尾九ヵ日之間三巻抄所馳筆也 同三年正月四日交点畢 金剛資頼縁
永仁二年(一二九二)甲午臘月二十九日巳時書写畢於紀州根来寺依播磨阿闍梨御房吾
首尾九ケ日之間三巻抄所馳筆也 仁恵 同三年正月四日交點畢 金剛資頼縁
永仁二年(一二九四)甲午十二月二十三日於紀州根来寺書写畢金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)正月十三日於根来寺中性院書写畢金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)正月二十一日於根来寺中性院書写了 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)正月廿五日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)二月五日於根来寺中性院書写了 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)季春六日紀州山崎庄池尻里於教廻時書写畢 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月六日於根来寺中性院書写畢頼縁
永仁三年(一二九五)乙未閏二月六日於根来寺中性院書写畢 頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月九日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月二十日於根来寺中性院拭老眼所書写之 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月廿五日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁 
永仁三年(一二九五)乙未二月二十五日於根来寺中性院書写畢 金剛仏子頼縁
永仁三年(一二九五)後二月廿六日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁
永仁三年(一二九五)乙未二月卅日於根来寺中性院書写畢 金剛資頼縁
弘安元年(一二七八)九月十七日於深雨中加点畢 金剛仏子頼瑜(中略) 金剛資頼縁
弘安六年(一二八三)七月十五日於高野山聖無院書写畢 金剛資頼縁卅
弘安六年(一二八三)九月九日於高野山中性院書写畢 金剛仏子頼縁三十
弘安六年(一二八三)九月九日於高野山中性院書写畢 金剛仏子頼縁
弘安六年(一二八三)十一月十四日於高野山聖無動院書写畢 金剛仏子頼縁三十
弘安六年(一二八三)十二月廿七日於高野山聖無堂院書写畢 金剛仏子頼縁卅
弘安七年(一二八四)四月廿八日於金峯山書写畢 金剛仏子頼縁生年卅二
弘安九年(一二八六)五月七日於高野山実相院書之畢 金剛仏子頼縁
弘安九年(一二八六)五月廿九日於高野山大伝法院之内中性院書写畢 頼縁
弘安九年(一二八六)六月十三日於高野山大伝法院中性院書写畢 執筆頼縁卅才
弘安九年(一二八六)六月十四日於高野山大伝法院内中性院書写畢 金剛仏子頼縁

儀海は頼縁を先師と記しており、鑁海については師主と記している。鑁海は慈猛の法弟で審海とは兄弟弟子である。審海は下野薬師寺より忍性に懇願されて、称名寺に入寺した経緯がある。文永四年(一二六七)八月のことである。忍性の高弟とされているのは忍性が小田氏の所領筑波郡三村郷の三村山極楽寺に滞在した、建長四年(一二五二)から弘長元年(一二六一)の間に子弟の関係になったのであろう。忍性は北郡小幡(八郷町)の宝薗寺をはじめ、北条氏所領の片穂荘の東城寺や信太荘宍塚(土浦市)の般若寺にもその影響をおよぼした。三村寺に建長五年九月十一日の日付をもち「三村山不殺生界」と刻された結界石を残したのをはじめ、般若寺、東城寺などにも同様の結界石を立てている。
馬淵和雄氏は『鎌倉大仏の中世史』で河内鋳物師や石工の集団を関東に連れてきたのは忍性であろうとされている。鋳物師は鎌倉大仏の鋳造や梵鐘の製作にあたり、大和の大蔵派石工集団は結界石や五輪塔の製作ばかりでなく、全国各地の板碑の爆発的な発生にも関与していたとおもわれる。
鑁海についての真福寺文庫撮影目録上・下巻による史料は次のようである。
弘安五年(一二八二)三月廿四日於下□薬寺客殿北面寮書写了 乗海 同六年八月十二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海
干時弘安七年(一二八四)三月十五日感得之納箱底不可令披露之旨可任本記者也 小比丘鑁海 同卯月廿二日午尅写之畢即時一交了
正安四年(一三〇二)正月廿八日写之了 年歳五十満拭老眼写之単為令法久後見感之耳 鑁海
正安四年(一三〇二)孟春二十三日己時於常州真壁成福寺書写畢為令法久任拭老眼写之乞後見感之多年歳 (梵字二字)(鑁海ヵ)
文保三年(一三一九)五月十日於[下]野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師儀海
文保三年(一三一九)四月十一日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写了権律儀海
文保三年(一三一九)四月十一日於下野国小山金剛福寺賜主鑁海ノ御本書写畢 儀海
文保三年(一三十九)四月十二日於下野国小山金剛福寺賜師主鑁―御本書写畢 権律師儀海
梵字四字)貫玉鈔 下州小山金剛福寺鑁海作(奥書)
瑜祇経法 下州薬師寺慈猛上人草本(梵字五字)一怗(奥書)
奥題名下ニ(梵字)師草本也者下野国金剛福寺開山鑁海之先師同国薬師寺長老慈猛上人之作也 干時観応三年(一三五二)五月二十一日於高幡不動堂以鑁海資儀海之本書写了 金剛仏子宥恵(梵字六字)五大虚空蔵念誦次第(梵字)一怗(奥書)
弘安五年(一二八二)三月廿四日於下州薬寺客殿北面寮書写了 乗海 同六年八月十二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海
 延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺書写了 儀海
瑜祇経眼目鈔 一怗(奥書)
嘉元二年(一三〇四)六月十九日書写畢 鑁海
 延慶三年(一三一〇)七月十五日書写畢 儀海
 延文六年(一三六一)三月七日於武州多西郡河口宿坊書写畢了 執筆良慶
顕密問答鈔下 一冊(奥書)
弘安五年(一二八二)三月二十四日於下州薬師寺客殿北面寮書写畢 乗海 同六年八月二日於常州真壁光明寺写之畢 鑁海
延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺 儀海
文和三年(一三五四)甲午五月二十八日於同州高幡不動堂書写了 宥恵 名月抄 一巻(奥書)
文保三年(一三一九)四月十二日於下州小山金剛福寺賜御自筆本書写了金剛資儀海四十
応三年(一三五二)黄金十八日於武州高幡不動堂虚空蔵院書写了 金剛仏子宥恵四十一
相承次第 一冊(奥書)
相承次第 大師 真雅 源仁 聖宝 延敒 壱定 法蔵 仁賀 真興 第三重可伝授
之付法只一人也 久安二年(一一四六)八月十三日記之 沙門源運
正和四年(一三一五)乙卯十月晦日於下州足利小俣鶏足寺奉授干鑁海上人畢 頼尊
文保三年(一三一九)己未正月十四日於常州真壁成福寺奉授権律師儀海畢 鑁海
観応三年(一三五三)壬辰三月二十九日於武州高幡不動堂虚空蔵院奉授権律師宥恵畢 儀海法印
文三年(一三五八)戊戌十月廿四日於尾州長岡真福寺奉授権律師宥円畢

【儀海】 方虚空蔵院儀海の相伝にして伝授せる法流に名づく。随って虚空蔵院儀海法印方・虚空蔵院方・武蔵方等とも名づく。これに二流あり。
(一) 報恩院流(三宝院流末流)の異相承にして、虚空蔵院儀海を祖とする。諸流秘蔵鈔に挙げる印信は四通にして、第一通伝法印信(二印二明初金後胎)、第二通伝法潅頂相承(紹文不等葉)、第三通伝法潅頂血脈、第四通第二重(一印二明)なり。憲深・實深・頼瑜・頼縁・儀海・能信・信瑜・任瑜・政祝と相伝せり。→報恩院流
慈猛意教流(三宝院流の末流)の異相承にして、虚空蔵院儀海を祖とする。この法流は慈猛房良賢の付法鑁海に就きて相伝せる法流なり。諸流秘蔵鈔には三通の印信を挙げる。第一通伝法汀秘印(紹文にして不等葉)。第二通伝法汀秘印(両部二印二明初金後胎)。第三通伝法汀血脈にして、成賢・頼賢・慈猛・鑁海・儀海・宥恵・信瑜・任瑜・政祝と相伝せり。→慈猛方。

 七  金沢顕時称名寺

金沢顕時 鎌倉時代の武将。宝治二年(一二四八)~正安三年(一三〇一)初名時方、越後四郎・越後入道と称し、赤橋殿と呼ばれた。法名恵日。実時の嗣子、母は北条政村の女。正嘉元年(一二五七)十一月二十三日元服。文永二年(一二六五)の初め左近大夫将監となり、同七年には引付衆に列している。弘安元年(一二七八)二月評定衆に列し、同三年十一月には越後守となり、同四年十月には引付頭に任ぜられて政治の枢機に参じた。しかるに同八年十一月、霜月騒動のとき安達泰盛の婿であった関係から所領であった下総国埴生荘に流謫された。下向に際して、父実時から与えられていた武蔵国金沢の称名寺内外の地を称名寺に寄進した。この寄進状は今に存し、顕時自筆と認められている。また同時に称名寺長老審海の書状を寄せ、右の寄進の趣旨を述べ、身辺の事情や心境に及んでいる。ただし、書状が弘安八年十二月二十一日付けであるのに対し、寄進状が十六年前の文永六年十一月三日付である点が一つの問題とされている。埴生荘において出家したが、永仁元年(一二九三)ないし同四年以前に召しかえされたと考えられる。その後は所帯を子貞顕に譲って隠退したかと思われる。正安三年(一三〇一)二月九日、かつて父実時が父母の菩提のために称名寺に寄進した梵鐘の破損を修治し、入宋僧円種をして新たに銘文を撰せしめて再鋳の上、再びこれを寄進した。同年三月二十八日、五十四歳で没した。称名寺境内に五輪塔の墓が現存する。顕時は学問・信仰への関心が深く、その書写・伝習した漢籍金沢文庫その他に伝存しており、弘安元年音博士清原俊隆から伝習した『春秋経伝集解』はその代表例である。
称名寺 神奈川県横浜市金沢区金沢町にある真言律宗の寺院。山号は金沢山。もとは極楽寺末寺。北条実時が母の菩提を弔うため文応元年(一二六〇)ごろ六浦庄内に建てた念仏の寺を、文永四年(一二六七)に妙性房審海を開山に迎えて律宗に改めた。二代釼阿、三代湛睿は優れた学僧として知られる。六浦は朝比奈切通しを通じて鎌倉と繫がり、和賀江津とならぶ鎌倉の外港であった。称名寺は、六浦津を管理し、関銭を徴収していたようで、和賀江津に関して極楽寺が同じ立場にぁった事を考えれば、忍性を中心とする律僧は北条氏と結んで鎌倉の海上ルート(貿易)を押さえていたと考えられる。境内には、北条実時以来の典籍類を集めた金沢文庫があり、大蔵経など仏教関係典籍、紙背文書を中心とする〈金沢文庫古文書〉などの文化財が豊富にある。
 正応四年(一二九一)九月称名寺三重塔が建立された。その落慶供養式衆に「…観教房 石河…」の記載がある(櫛田良洪真言密教成立過程の研究』)
正応六年(一二九三)には北条顕時の右筆であろうとおもわれる「教道」なる人物がいる。武蔵南多摩郡石河であろうとされている。石河は現八王子市石川町であろう。真福寺文庫撮影目録に次のような記述がある。
花厳論議蔵第二 三巻内 良信房 一怗(奥書)
本云寛正三年(一四六二)壬午九月二〇日於南都上房書之可□之也 本云干時寛正七年丙戌二月十二日書畢於武州石川談所室生寺長円院厳之房高野山之居住之時於幸良写絡云々敷宥境智御房 本云干時長享三年(一四八九)十月二日后半於上州多比良光明寺境切房御本申請写之畢 惣伝房 本云干時延徳二年(一四九〇)正月十八日於新田庄別所円福寺談所此論議奥行之時節写申覚祐其後淳智房御本ニテ明応三年(一四九四)七月八日書畢 上州新田庄別所談所円福寺居住時極楽房ニテ写了 
良心船木田庄由井郷(東京都八王子市弐分方・西寺方地域)を訪れている。金沢文庫古文書第10「華厳五経章上巻指事奥書」に次のようにある。
  華厳五教上巻指事
 (末尾)
正應六年三月五日、於武州船木田庄内由井
□内郷御堂書写了、       右筆教道
 金沢(北条)顕時・貞顕親子は特に経典の書写、収集に熱心であった。正応年間の顕時についての記録はない。それは、霜月騒動による混乱によるものと思われるが、この書写を命じているのが顕時とおもわれることからすでに下総国埴生庄より帰っている可能性がある。『華厳五教章指事記』は唐の賢首大法蔵の『華厳五教章』を文章について注釈したもの。東大寺寿霊の著作。三巻(上・中・下)。現在金沢文庫には上巻本末・下巻本が存在する。八王子市元八王子町の通称城山(八王子城)の地には「華厳菩薩」の伝説がある。『華厳菩薩記』の筆者は文怡悦山という黄檗宗の禅僧で、康暦元年(一三七五)三月十五日に書いたものである(宗関寺文書)。しかし、この伝説については従来から疑問視されていたが、この地域での教道の書写と『華厳菩薩記』の書かれた年代を考えると興味深いものがある。
徒然草』の作者、吉田兼好卜部兼好が正しい、兼好法師)は弘安六年(一二八三)~観応元年(一三五〇)四月八日(?)の人であるらしい。林瑞栄によれば、兼好は金沢貞顕に仕えた倉栖兼雄(文保二年没す)という人物の「連枝」(兄弟)であり、兼雄の母「尼随了」が兼好の母で、兼好の父は倉栖某である。兼好は関東武家社会の出身者であったのではないかとした。従来は『卜部氏系図』によって兼好の父は兼顕で、兼顕には慈遍・兼雄・兼好という三人の子があったとされていた。この説によれば、兼好は武蔵国金沢で生まれ、八歳の時に京に迎えられたとすることもできる。また、兼好は二度鎌倉にきて金沢に居住したようである(徳治元年~延慶元年か?)。永井晋氏は人物叢書金沢貞顕』(吉川弘文館)で新しい説を展開している。
 儀海は弘安二年(一二七二)の生まれで、日野市の高幡不動(高幡金剛寺)所蔵法統譜によれば、観応二年二月二十四日の示寂とされる。兼好と儀海は共に同じ時代を生き抜いた。兼好は隠者として生き、儀海は求法沙門として生きた。
金沢文庫には義海の書状がのこされている。「儀海」とはなっていないので本稿の儀海であるかについては疑問であるが参考までに挙げておく。
      愚身も此四五日違例、風氣と學候、兩三日之際ニ
      不取直候ハゝ、講問事大難義□不定存候、尚々只
      今芳問、返々殊悦候也、御音信先承悦候、抑自去月之始病床之處、結句此間以外打臥候間、是如仰旁令計會候、如此之式候之間、破立事も干今不申入候、雖然途賜之條、恐悦候、御違例事驚存候、熟柿之熟子にて候へとも、返々無勿躰候、以御暇申承候ハゝ、自他可散欝念候、恐々謹言、
       十一月六日            義海
         侍者御中 御報(ウハ書)
      「(切封墨引)義海状」
 弘長二年(一二六二)は謎の多い年である。『吾妻鏡』はこの年について、欠巻あるいは、故意に記載しなかったと思われるのである。石井進氏は次のように述べている。
 北条長時の死の前々年、弘長二年(一二六二)、まさに『吾妻鏡』の欠落しているこの年にもまた相当の政治的陰謀事件が欠けてはいなかっただろうか。「かまくらにひそめく事あてめさるゝあいた、いのちそんめいしかたきによりて」という理由で出発前に嫡子弥二郎季高に肥前国朽井村地頭職田畠山野等を譲った同年九月廿九日付の同国国分寺地頭藤原忠俊・母堂松浦鬼丸藤原二子連署譲状(多久文書)によって、それは明らかである。では「ひそめくこと」とはいつたいなにであったのか。肥前国の地頭御家人までが召集令をうけているとこるからすれば事態は相当深刻であり、陰謀はかなり危険なものであったに違いないが、他の関係史料は口を閉じてなに一つ語ってはくれず、これまでの研究者も誰一人この事件に注目してないので詳細はこれ以上不明というほかはない(石井進著『鎌倉武士の実像』)。
弘長二年(一二六二)、鎌倉の前浜に三枚の板碑がたった。浜の西端に一枚、東端に二枚。鎌倉でそれ以前の板碑といえば、正嘉元年(一二五七)銘の折れたのが扇ガ谷の民家に一枚残っているだけだ。五年の空白の後、三枚が造立されたことになる。いくらか唐突の気味もあるこの事実は、なにを意味しているのか(馬淵和雄『鎌倉大仏の中世史』)。
鎌倉大仏は当初、木で造られていた。それがこの年鋳造されて完成したのである。
 鎌倉大仏は、天台宗など旧仏教勢力と一体になった京都の公家政権による強固な国土支配を、東国の武家政権が新興の宗教勢力とともに奪取しようとした、その象徴だった、と私は考える。(『馬淵和雄』)
 この年、西大寺叡尊は関東に下向する。北条時頼の再三の懇願によるものであった。時頼との会談の内容は謎である。そして、これを機に真言律宗西大寺の勢力は全国に拡大していった。北条執権体制は北条泰時の定めた御成敗式目にみられるようにその政権を維持していたのは法である。この時代訴訟のすべてはこの法によって解決されていた。北条氏はその執権の正統性を主張する為には公平な裁判による政治力しかなかったといえる。西大寺永尊は律によりる仏教の改革をめざしていた。めざすところは同じであった。しかし、法は時代の流れに適応できなくなり、やがて鎌倉幕府は崩壊へとむかってゆくのである。

八  儀海の布教活動と「由井郷」「慈根寺」
蒙古の襲来による文永・弘安の役は、幕府政治の面では得宗専制を加速させ、西国の荘園・国衙領の住人の動員によって幕府権力の西国への浸透をもたらした。また御家人は恩賞不足に対し不満を持ち、合戦後も続いた異国警固番役の負担に苦しんだ。一方、暴風を神威の現れとみる日本神国観を定着させた。全国各地の寺社では異敵調伏の祈祷が行われた。叡尊も弘安四年(一二八一)閏七月一日同法三百余人をひきいて、石清水八幡宮に参り、南北二京の僧五百六十余人とともに宝前に勤行し、さらに説戒の上、八幡大菩薩に国難を訴え、「東風を以て兵船を本国に吹き送り、来人をそこなはずして乗るところの船をば焼き失はせたまへ」と祈願した。この月八日ようやく浄住寺にひきあげた永尊はその翌日、異国の兵船がさる一日の大風のためみな破損したとの吉報に接したのである。『西大寺光明真言縁起』には陀羅尼結願のとき、永尊所持の愛染明王像の鏑矢が八幡宮の玉殿から西を指して飛行し、異賊をほろぼしたと伝える。その場にいた人々は皆これを見ていたという。文永・弘安の国難は、永尊が宮廷に接近し、西大寺流が朝家に重きをなすために確かに無二の機会であった。極楽寺の忍性も同様であったに違いない。寺社勢力は武家から旧領を回復していった。儀海の布教活動もこの流れの一観であるとおもわれる。船木田庄由井郷を儀海が訪れたその背景に触れておきたい。
 金沢氏(顕時・貞顕)天野氏(景茂・景広)由井氏(由比尼・由比尼是勝)永井氏(宗秀)・梶原性全などは称名寺を中心に文化活動をおこなっていた。金沢氏と天野氏は姻戚関係にある(由比尼)。永井氏の永井文庫は金沢市金沢文庫との間に書籍の貸し借りを行っていた。また無住は梶原氏の出身であり、梶原性全と同族である。性全は長井掃部頭に仕えたこともある鎌倉時代の有名な僧医で、無住はもともと病弱であったが、長命であったのは性全の処方した丸薬によるという。かれらは、今で言う「サークル」を形成していた。
劔阿の称名寺での実力と長老への就任および湛睿・実真の動向も関係していたと思われる。金沢文庫所蔵の経典類は、金沢氏や称名寺の所領などこれらと関係の深いところで書写されたものが多いようであるが、由井郷は金沢氏と姻戚関係にある天野氏や由井氏の所領であることから、ここで新義教学の布教が熱心になされたとしても決して不自然はではなかろう(『細谷勘資』)。
儀海の動向は永仁三年(一二九五)から嘉元三年(一三〇五)までの間については不明であるが、鑁海のもとで古義教学の研鑽に励んでいたと思われる。櫛田良洪氏は、頼縁が新義教学を慈根寺(八王子市元八王子町)で講義すると聞き訪れたとされている。儀海は川俣甘露寺福島県川俣町)にも頼縁の事跡を訪ねている。儀海やその弟子たちは多くの聖教類を書写しているが、和紙は、当時高価なうえに貴重品であつたからそれを入手するのには経済的な裏づけがなくてはならない。儀海や弟子の書写活動の地域にはそれを支える豊かさがあったと思われる。儀海が慈根寺から長楽寺(八王子市川口町)に通った八王子市西寺方町に紙谷の地名がある。当時、この地は和紙の生産地であった。また、船木田庄は豊かな荘園であったと思われ。九条家領文書や東福寺文書によれば、摂関家の船木田荘の歴史は古記録に「清慎公藤原実頼)家文書順孫実資(小野宮流)伝之」と記されている。実頼は藤原忠平の長男で、父忠平は太政大臣の時に東国を揺るがした「天慶の乱」がおきている。平将門の反乱である。将門は忠平の家人となり滝の武士となっている。武蔵の武士らも忠平と主従に近い関係を持つことにより、自らの開発した土地を守ることに必死であったと思われる。忠平は荘園整理令等も行っている。船木田荘が摂関家の荘園となったのは実頼以後と考えたい。慈根寺はこの荘園内に藤原実頼かその養子の実資によって船木田荘の寺として創建されたと思われる。その維持などの費用はこの荘園で賄われたのであろう。慈根寺はかなりの大寺で、この寺の開山は藤原氏京家の出身の元杲(九一四~九九五)である。父は雅楽助藤原晨省。元杲は空海の法流を継ぐ淳祐(八九〇~九五三、菅原道真の孫)の弟子で、天台宗の元三大師良源も同時に学び親交があった。淳祐と元杲はともに祈雨に法験があった僧でもある。また、淳祐は観賢に従って高野山に登り、弘法大師の膝にふれた手の妙香が生涯消えなかったという伝えは広く知られる。
 弘法大師の命日の法会である御影供は、大師没後、潅頂院の弘法大師像の壁画を本尊としておこなわれていた。これが毎年三月二十一日の潅頂院影供である。これに対して中世の御影堂御影供の成立について記したのが、『東寺百合文書』の「延応二年(一二四〇)教王護国寺西院御影供始行次第」である。弘法大師像は天福元年(一二三三)長者新厳の時に作られた。高野山でも弘法大師にたいする信仰がある。儀海も大師に対し「…願以書写生々世々値遇大師聴聞密教」(『瑜祇経拾古鈔』奥書)「…為興隆仏法書写畢、願以書写之功為書写之功生々世々大師値遇之縁而已」(『大日径義釋演密抄』奥書)とたびたび記している。
儀海の由比郷での真福寺文庫撮影目録上・下巻の奥書は次のようである。
嘉元四年(一三〇六)正月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺書写畢 金資儀海廿七
嘉元四年(一三〇六)二月廿八日於武蔵国由井横河慈根寺談議所 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七
嘉元四年(一三〇四)四月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵写畢 金剛資即円二十七
嘉元四年(一三〇四)四月廿九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子(梵字二字)二十七(儀海ヵ)
嘉元四年(一三〇六)五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院末資(梵字二字)(儀海ヵ)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了
嘉元四年(一三〇六)十月十二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵見聞畢金剛資即円廿七即時伝授畢 
嘉元四年(一三〇六)十月十五日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决共々記了 金剛仏子即円廿七
嘉元四年(一三〇六)十月二十二日於武蔵国由井横河菴室亥時書写畢 同月廿三日夜子時一交畢 金剛仏子儀海廿七才
嘉元四年(一三〇六)霜月二日武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資即円
嘉元四年(一三〇六)極月五日記了 金剛資即円廿七
嘉元四年(一三〇六)極月七日於武蔵国由井横河慈根寺草菴書写畢 金剛仏子即円二十七
嘉元四年(一三〇六)霜月十一日於武蔵由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資即円二十七
嘉元四年(一三〇六)拾月弐拾二日於武蔵国由井横河庵主亥時書写之畢 金剛仏子儀海廿七才 同月廿五日夜子時一交畢
嘉元四年(一三〇六)霜月廿二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵子時書写畢 金剛資儀海
嘉元四年(一三〇六)極月廿四日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子即円
嘉元四年(一三〇六)霜月廿六日記了 金剛資即円廿七
徳治二年(一三二八)二月三日於武蔵国由井横河郷慈根寺御房留守之時夜半許書写畢 金剛資即円廿八 同月六日夜寅時驚睡眠日令一交畢 
徳治二年(一三〇七)二月三日於武蔵国由井横河慈根寺御房留守之尅夜半許書写之 金剛資即円廿八同月六日夜寅時驚□眠令一交畢
徳治二年(一三〇七)二月五日武蔵国由井横河慈根寺草庵 金剛資儀海二十八
徳治二年(一三二八)二月廿五日於武蔵国由井横河慈根寺草庵依可然善縁此抄物令歳得處也偏右無上菩提染筆處也辰時書写了 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)二月廿七日於武蔵国由井横河慈根寺之草庵酉時令染筆畢 金剛資儀海 
徳治二年(一三〇七)二月廿九日於武州由井横河慈根寺書写畢 金剛仏子即円
徳治二年(一三〇七)三月二日於武州由井横河慈根寺草菴巳時令染筆畢 金剛資 即円廿八
徳治二年(一三〇七)四月廿二日於武蔵国由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛仏子即円
徳治二年(一三〇七)五月一日於武蔵国由井横河慈根寺草庵受御口决九牛一毛記之畢 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)五月廿日於武蔵国由井横河慈根寺以御口决九牛一毛記此畢 東寺末葉即円廿八
徳治二年(一三〇七)五月廿二日於武州由井横河慈根寺草庵承御口决九牛一毛令抄書之了[金剛仏子即円]廿八
徳治二年(一三〇七)六月六日於武蔵国由井横河慈根寺草菴酉尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 三宝院末寺金剛資儀海廿八
徳治二年(一三〇七)六月廿五日於武州由井横河慈根寺草庵書写畢 金剛資儀海廿八
徳治二年(一三〇七)六月二十七日於武州由井横河慈根寺草菴午尅書写畢 三宝院末資即円二十八
徳治二年(一三〇七)七月七日於武州由井横河慈根寺草菴申尅書写畢 願以書写生々世々値遇大師 敬聞密教 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)九月二十五日日於武州由井横河慈根寺草菴書写畢 金剛資儀海二十八 同年八月一日於相州鎌倉大仏谷亥尅一交畢
徳治二年(一三〇七)拾月七日於武州由井横河慈根寺巳尅染筆畢 願以書写生々値遇大師密教聴聞 金剛佛子即圓二十八才已上三ヶ日伝授畢 
徳治二年十一月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵御口决小記畢秘抄談義承事偏宿習深厚由也願当□大師御共弥勒会上列開金剛宝蔵施□金剛仏子即円廿八
已上四日伝授畢 
徳治二年十一月十三日於慈根寺承口决抄記了 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)十一月十三日於慈根寺承少々口决抄記了 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)十一月十九日於武蔵国由井横河慈根寺草庵承口决小記畢 秘抄談義承事偏宿習深厚由也願当□大師御供弥勒会上列開金剛宝蔵施□□□ 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)霜月五日於武蔵国由井横河慈根寺草庵受御口决粗記了抄記志偏為無上菩提也 金剛仏子即円廿八
徳治二年(一三〇七)霜月十四日武州由井横河慈根寺草庵令染筆畢 金剛資即円廿八
徳治三年(一三〇八)正月九日於武州由井横河郷巳尅許令染筆畢 金剛資儀海二十九
徳治三年(一三〇八)四月十二日於武蔵国由井横河郷薬坊書写畢 筆師儀海廿九
徳治三年(一三〇八)八月廿五日於武州由井横河郷弊坊巳尅書写畢 金剛仏子儀海生年二十九
延慶元年(一三〇八)極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九
延慶元年(一三〇八)極月廿日於武州由井横河慈根寺巳尅許書写了 金剛仏子儀海廿九已上五日畢 
本云嘉元四年(一三〇六)五月十九日於武蔵国由井横河慈根寺受御口决少々記之了 三宝院未資(梵字)廿七才也 已上第一巻廿三日伝授了 
延慶元年(一三〇八)極月廿六日於由井横河慈根寺巳尅令書写畢 金剛仏子儀海生年二十九
延慶二年(一三〇九)戌申二月廿日於武州由井横河慈根寺書写畢 金剛資儀海
延慶二年(一三〇九)八月二十八日於武州由井横河慈根寺蔽房書写畢 金剛資儀海三十
延慶二年(一三〇九)八月晦於武州由井横河慈根寺令染筆畢 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)卅
延慶三年(一三一〇)七月十五日於武州由井横河郷慈根寺書写了 儀海
延慶四年(一三一一)正月七日於武州由井横河慈根寺弊坊書写畢 金剛仏子儀海三十二
応長元年(一三一一)十月二十四日於武州由井横河慈根寺蔽坊閣万事令書写畢 三宝院末資 儀海三十二才
応長元年(一三一一)十月廿九日於武州由井大幡永徳寺如法経修申出写畢 金剛佛子儀海三十二
応長元年(一三一一)十月廿九日於武州大幡永徳寺如法修中書写畢 金剛仏子儀海三十二
正和元年(一三一二)六月十九日於武州由井南河口長楽寺西谷草菴談義之間走筆畢 権律師儀海卅二 唯識論一云然諸我執略有二種一者倶生二者分別□倶生我執細故難断後修道中数々修習生定観方能除滅分別我執簾故易断初見道特方聢除蔵之
正和三年(一三一四》九月十六日於武州北河口書写畢 金剛資儀海卅五
正和四年(一三一五)正月二日於延福寺書写了 権律師儀海三十六
正和四年(一三一五)正月五日於延福寺書写畢 権律師儀海卅六 
延慶三年(一三一〇)七月二十九日於武州由井横河慈根寺幣房午尅師主以御自筆御本書写畢(梵字)卅一
正和四年(一三一五)正月十九日於延福寺書写了金剛資(梵字儀海)(梵字二字)(儀海)三十七
元亨元年(一三二一)十月三日於武州由井河村◆房書写畢 権律師儀海四十二才元亨元年(一三二一)九月廿七日於武州由井慈根寺権律師儀海四十二
元亨元年(一三二一)十月三日於武州由井阿村弊房書写畢 権律師儀海四十二才
正慶二年(一三三三)正月七日於武州多西郡由井横河慈根寺坊午尅染筆畢 金剛仏子儀海三十
正慶三年(一三三四)七月廿三日於武州由井横河慈根寺幣坊賜師主御自筆本未尅書写了儀海

頼縁・儀海・即円・能信は嘉元四年(一三〇六)に横河・高幡不動を訪れている。これは偶然ではなく、鎌倉より共に来たのではないだろうかと思える。即円は東寺末葉とある僧で、徳治二年(一三〇七)までは行動を共にしていたと思われる。儀海とは同年代である。
西明寺】 慈根山と号す。八幡宮別当。新義真言、大幡宝生寺末なり。御朱印社領十石。境内二町余。本尊阿弥陀如来 木立像、作不知。客殿。庫裡。開山権大僧都元杲 正暦三壬辰年(九九二)二月寂。寿八十二歳。されば、至って古き寺なれども、往古何宗なるか、八幡宮棟札によりて考うれば修験にてもあるにや。正暦(九九〇~九九五)の頃よりありし寺にて、その頃には慈根寺といいしならん。それゆえ寺名に古く慈根寺の称えありし。建久二年八幡宮を梶原が勧進の砌に別当所に補せしが、その後また廃せしを西明寺再営のとき山号に慈根山を称して、その由来わずかに存することといえり。
 薬師如来 一軀、厨子入、木立像、七寸五分、安弥陀作。この尊像は北条氏直より寄附し給う所なり。自鳴の鰐口 径七寸五分。この鰐口を往古盗み取る者ありしに、自然と音を出しければ、盗み去ることを得ざりしゆえ社中へ置きしなり。夫より自鳴の鰐口と云う。
 武刕多西郡由井領横川八幡宮鰐口也 下野日光山鹿沼窂人
天正十六年戌子五月廿八日 敬白  横手右近正娘祈念奉寄進者也
(『武蔵名勝図会』)。
 この寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となった。八幡神社宮司梶原正統氏宅のある1帯で、本堂跡は中央高速道の下になってしまった。道路ができる以前は古池や古井戸もあった。梶原氏宅には西明寺過去帳一冊が所蔵されていたが、戦災で焼失してしまった。
 通称「峯山」と呼ばれていた丘の谷に(現在城山小学校がある)小さな滝があった。村人は「ドウドウメッキ」とよんでいた。「メッキ」とは「滅氣」のことであろう。「ドウドウ」は滝の落ちる音であろうか。滝行が行われていたと思われる。この近くを大正時代の地図には太夫坂を越え慈根寺に入り峯山より川村をへて宝生寺の横を通り川口の長楽寺に至る鎌倉古道があった。道沿いには常盤正司氏宅出土の板碑や、山王台の板碑、西光院の板碑などが点在している。
八幡宮】元八王子村鎮守。御朱印社領十石。別当西明寺なり。社地より北の方、社領の内に寺あり。神体甲冑馬上の木像。例祭八月十五日。社地は村の中央なり。大門路一町程、入口に木の鳥居あり。高さ一丈二尺許。本社六尺四方、南向。弊殿二間三間。拝殿二間五間。本地仏阿弥陀堂二間四面。本社の傍にあり。本地阿弥陀仏免除地三石。末社四社。合殿小祠。釣鐘堂九尺四方、本社の前にあり。鐘銘文なし。本社の両破風幷に屋根の金物皆、梶原の定紋二本矢羽根、渡金にて、つけたり。土俗梶原八幡宮とも云う。梶原平三景時の勧進せしゆえなり。その謂われは次に出す。又云梶原杉と号する大杉二株あり。1株は本社の脇にあり。1株は大門路の内にあり。周径二丈二尺程。これは梶原が勧進せしときよりの社木なり。その余は枯れて、いま並木のみなり。中古以来の列樹なり。
 勧進の最初を考うるに、鶴ヶ岡八幡宮の神体を梶原がこの地へ移し奉れり。康平六年(一〇三六)八月源義朝朝臣始めて造立の地は由比ヶ浜にて、鶴ヶ岡といいし地名なれば鶴ヶ岡八幡宮と称し奉る。いまの地は小林松ヶ岡という地名なれども、古名をとりて今に鶴ヶ岡と称す。左大将家新建の宮殿は建久二年(一一九一)四月造畢。正遷座のとき古き神体を梶原景時に賜いければ、この地は景時が所領の地ゆえ、鶴ヶ岡に似たるところを撰びて鎮座なし奉る。当社も往古は鶴ヶ岡と称し、建久二年六月この地に遷座あり。その時の棟礼歴然として当社に存せり。それより梶原八幡宮とも称したる。宝物 弘法大師墨蹟一軸「八幡宮」と書きたる堅物なり。之は甲斐律師という者奉納するものなり(甲斐律師は頼瑜のこと)(『武蔵名勝図会』)。
 古棟礼 三枚
    奉勧請相刕鶴岡 當社別当覺正
  奉勧請八幡宮  大旦那梶原平三景時
  建久二辛亥歳六月十五日 大工左衛門五郎

   當社別當東光坊聖宗  五度造営之
 奉造營八幡宮大旦那梶原修理亮入道賢孝同子息助左
文明十七年乙巳十月十六日 大工左衛門五郎…
   裏ニ筆者民部卿永海書畢

   當社別當因幡律師宗濟 大工左衛門五郎
 奉造營八幡宮大旦那梶原修理亮家景
  旹寛正竜集 癸未十月廿又二日
   裏ニ勧進沙門東福権僧都聖範 寫

慈根寺を支えた人々の中に鎌倉御家人梶原氏がいる。梶原氏はこの地と関係が深く梶原景時の母は横山庄の別当横山孝兼の娘である。この孝兼は和田合戦で滅んだ横山時兼の曽祖父にあたる。慈根寺の所領は横山孝兼の娘の持参であった。梶原景時は正冶二年(一二〇〇)十月、新将軍源頼家に結城朝光を、異心を抱く者として讒言したことから、三浦・和田その他、重臣の憤りを招き、景時ら一族は鎌倉を追放された。景時は源氏の一族、武田有義を将軍に擁立を計り上洛を企てたが、駿河国狐崎で在地の御家人の為に殺され一族は滅んだ。景時の長男、景季もこのとき父と運命を共にした。景時の次子、平次景高の子景継は三代実朝嗣職の後、再び召されて鎌倉幕府に仕えた。後の時代に室町幕府の鎌倉府に仕えた武州一揆の梶原美作守・但馬守の兄弟や梶原能登守がいる。梶原美作守は船木田庄由井郷横河村(八王子市元八王子町)に舘跡があった。

横山馬允時兼、波多野三郎(時兼が婿)横山五郎(時兼が甥)以下數十人の親昵従類等を引率し、腰越の浦に馳せ来るのところ、すでに合戦の最中なり(時兼と義盛と叛逆の事を謀り合わすの時、今日をもって箭合せの期と定む。よって今來る)。よってその黨類皆蓑笠をかの所に弃つ。積みて山を成すと云々。しかる後、義盛が陣に加わる。義盛、時兼が合力を得て、新覊の馬に當る。彼是の軍兵三千騎、なほ御家人等を追奔す(『吾妻鏡第廿一』建暦三年五月)。
 和田合戦で横山一族の主な人々は討死にする。その中に「…ちみう(ちこんしィ)次郎・同太郎・同次郎・五郎…」の記述がある。「ちこんしィ」は慈根寺であろう。
戦国末期の新陰流上泉伊勢守信綱の高弟に神後伊豆がいる。名を宗冶といい武蔵八王子の出身で、永禄六年以降師伊勢守に従って諸国を武者修行し、将軍足利義輝・関白豊臣秀次の前で数々の武芸を演じ賞賛の辞を賜わった。この神後伊豆も慈根寺氏の末裔である。
「お父さんどうしてぼくのところは二分方などというへんな地名なの」「……」父無言であるわからない(八王子市二分方町の父と子の会話)。大正十三年の国土地理院の五万分の一の地図には弐分方・上壱分・下壱分方とある。この地名のいわれは鎌倉時代に全国各地で起きた土地の相続や境界をめぐる相論によるものである。由井本郷では正和二年(一三一三)五月二日と文保元年(一三一七)六月七日に幕府が裁定している。最初は儀海が在郷していた時である。どのような思いで儀海は見つめていたのであろうか。
 由比本郷は中世の船木田庄内の郷村で、由比は由井・油井とも記される。「延喜式」に武蔵国の四牧の一つとしてみえる由井牧の故地で、八王子市西寺方町・上壱分方町・二分方町・大楽寺町・四谷町・諏訪町の一帯と推定される。建長八年(一二五六)七月三日の将軍家政所下文(尊経閣文庫所蔵『武家手鏡』)によれば、天野景経に「船木田新庄由井郷内横河郷」などの所領を安堵している。この所領は永仁二年(一二九四)景経の子頼政に譲られた。やがて、その子孫の顕茂・景広兄弟の間に、由井本郷をめぐる相論が惹起し、正和二年(一三一三)五月二日幕府は両者の和与を承認した。それによれば由井本郷のうち三分の一が弟景広に譲られ、三分の二が顕茂の所領となった。また文保元年(一三一七)六月七日の顕茂・景広兄弟とその姉妹尼是勝との和与を承認した。関東下知状(天野文書)によれば、本来この由井郷は武蔵七党の一つ西党に属した由比氏の所領であったが、彼らの母由比尼是心が天野氏に嫁したことから天野氏に伝領されるようになった。鎌倉時代の女性はこの相論から知れるように所領を相続する権利を持っていた。お袋様という言葉はこの頃、母親が領地の証文を袋に入れ持っていたことにからによるという。

 天野肥後三郎左衛門尉顕茂と同次郎左衛門尉景広と相論す、亡父新左衛門入道観景の遺領武蔵国由比本郷、遠江国奥山の郷避前村、美濃国柿の御薗等の事、
右の訴陳状につきてその沙汰あらんと欲するの処、去月廿八日両方和与畢んぬ、顕茂の状の如くんば、右の所々は、亡父観景の手より去る正応二年三月卅日顕茂譲得の処、景広は徳治三年六月十七日の譲状を帯すと号し、押領せしむるの間、訴え申すにつきて、訴訟つがえ、相互に子細を申さずといえども所詮和与の儀を以て、顕茂所得の内の由比本郷参分の壱(ただし屋敷・堀ノ内等は参分の二の内につく)美濃国柿の御薗半分を景広に避渡し畢んぬ。次に正応の譲状に載する所の景広の遠江大結、福沢幷長門国岡枝郷等(中略)景広分たるべし云々者、早くかの状をまもり、向後相互に違乱なく領知すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し。
   正和二年五月二日 相模守 平朝臣(北条凞時)(花押)
天野肥後左衛門尉顕茂法師(法名観景、今ハ死去)女子尼是勝(本名尊勝)の代泰知と兄次郎左衛門尉景広の代盛道、同じく弟三郎左衛門尉顕茂の代朝親等相論す、由比尼是心(観景姑)の遺領遠江国大結福沢両郷、避前村、武蔵国由比郷内田畠在家(源三郎作)の事
右訴陳状につきて、その沙汰あらんと欲するの処、各々和平し畢んぬ。朝親の去月廿五日の状の如くんば、由比尼是心の遺領武蔵国由比本郷内源三郎屋敷(顕茂知行分)、遠江国避前村等中分の事、右是心の養女の尼是勝訴訟につきて、訴陳をつがえ、問答といえども、和与の儀を以て、源三郎屋敷(打越の地を除く定)炭の釜一口のうち三分の一幷避前村等半分(巨細は目六に載せ畢んぬ)尼是勝にさけ与うる者なり。ただし避前村の代官屋敷は顕茂分たるべく、同村内中辺名の代官屋敷は、是勝分たるべし、若しかの屋敷、避前屋敷の処に交量すれば、不知分に於いては顕茂の分を以て入立つべし。又諏訪社(大宮と号す)毘沙門堂は、顕茂の分たるべし。八幡(西宮と号す)十二所権現は是勝分たるべし。次に源三郎屋敷内の社一所(二十四宮と号す)は顕茂たるべし。御堂壱所(是心の墓所)は、是勝分たるべし。然れば即ち顕茂文の注文と云い是勝の注文と云い、後証のため両方に加判せしむる所なり。自以後は彼の状に任せ、相互に違乱なく領知すべし云々。泰知同状の如くんば、子細同前と云々。盛道同じく廿七日の状の如くんば、由比の尼是心の遺領武蔵国由比本郷のうち源三郎屋敷、田畠、在家幷びに炭釜(景広知行分)遠江国大結、福沢両村等中分の事、右是心養女尼是勝訴訟につき、訴陳をつがえ、問答を遂ぐといえども、和与の儀を以て源三郎屋敷内田畠在家景広知行分幷びまた大結、福沢半分を是勝にさり渡す所なり。但し今は坪付以下委細の目六なきの間、地下の注文を召し上げ、後の煩いなきのよう、来月中に是勝方に書き渡すべし。次に是心跡の炭釜一口のうち六分の壱は是勝分たるべしと云々。泰知同状の如くんば、子細同前此の上は異儀に及ばず、早く彼の状に任せて沙汰致すべきの状、鎌倉殿の仰せによって、下知件の如し
     文保元季六月七日(北条高時




相模守平朝臣(花押)
       (金沢貞顕
      武蔵守平朝臣(花押)

 この相論の史料を読むと炭釜の所有権が和与の対象となっている。この炭釜が刀剣等の製作に関わっていたのではないかと従来いわれていた説もあるが、東国、多摩川の上流では炭焼きが盛んにおこなわれていたようである。日常的なものであった。時代は下るが永禄年中、栗原彦兵衛が北条氏照の奉行より炭焼を命ぜられた文書がある。
 同村内中辺名の代官屋敷とは現在の下恩方町字辺名の地であろう。諏方(大宮と号す)毘沙門堂の地は諏訪神社ではないであろうか。
 源順が承平年間に撰進した『和名類聚抄』によれば、多摩郡は十郷より成り立ちその中に川口郷がある。この地は八王子市川口町・上川町の地で、宮田遺跡より出土の「子供を抱く母子像」の土器は考古学史に残るものである。川口川・谷地川・湯殿駕川の流域は水利に恵まれ稲作には適した地であり、早くから開発が進んだ所である。これらの川の上流の谷戸には「谷戸田」があり、小規模な水田が作られていた。
 我が国は「瑞穂の国」と古くから呼ばれ、稲作中心で自給自足の生活であったと言われていたが、そのようではなく中世では交易も盛んになり、足りない物資を求めて商業活動をする「百姓」もいたのである。百姓‖農民の図式ではなく、手工業・商業活動に携わっていた。中世初期の荘園では稲作以外に焼畑・畠作・漆・桑・柿・栗・苧等を作り、布・絹・錦等を織り商業活動等を営んでいる。いつの時代も織物は女性の仕事であった。船木田庄内でも各種の産物が作られ、それはら都に送られ、それらを運送する専門の人々もいたであろう。「武蔵多西郡船木田庄について」の研究ノート(杉山博)に文和三年(一三五四)閏十月廿一日船木田年貢代付物送文に、絹・小袖等の代価が記されている。
 本稿の題名「儀海みち」は儀海が慈根寺から、宝生寺のある大幡へと歩み、幡峯を越えて川口長楽寺にゆく姿と、新義真言教学に励む求法儀海の人生の過程をイメージしてつけたものである。幡峯から南に望むと由井の深沢山(八王子城のあった山)は円錐形の先端を少し切ったような山容である。この地に住む人々は早い時代からこの山に対する信仰があったと思われる。儀海も幡峯の麓にあった大幡観音堂に身を休め、その縁で宝生寺の開山となったのではないかと思われる。

永仁二年(一二九二)九月二十九日鎌倉幕府は、藤原景経が子息顕政に譲与した船木田新庄由比内横河郷等の領有を保証する。(『日野市史史料集古代中世編』)
尊経閣文庫所蔵文書〕一関東下知状
早く左衛門尉藤原(天野)顕政をして領知せしむべき武蔵国舟木
田新庄由比内横河村・安芸国志方庄西村・美濃国下有智御厨寺
地・橘村ならびに弥四郎兵衛尉遠江国西□山内佐久・八重山
小松崎地頭職 寺地・橘・佐久・八重山・小松崎、後家一期の
後、知行すべきの由、譲状に載す、事右親父安芸前司(天野)景経法師法名心空の去ぬる八月廿日の譲状に任せ、領掌せしむべきの状、仰せによって下知件のごとし。
      永仁二年(一二九二)九月廿九日
                  陸奥守平朝臣北条宣時)(花押)
                  相模守平朝臣北条貞時)(花押)

 九  亀熊成福寺と儀海
茨城県桜川市真壁町亀熊の地は真壁氏が平安時代末期から戦国時代末期まで約四百年間、常陸国真壁郡内に拠点を置き、中央武家権力の推移と並列して郡内の所領経営を保持し続けた所でもある。真壁氏は桓武平氏の一流である。真壁六郎長幹がその祖である。長幹は鎌倉幕府成立後に幕府御家人として『吾妻鏡』にその名がみえる。儀海がこの地を訪れたその理由については不明であるが、儀海の師、鑁海に関係深い寺でもある。『真壁町史料中世編Ⅰ』に「沙弥淨敬 真壁盛時譲状」と「関東下知状」がある。この地でも儀海のいた時に相論が起きているのが知れる。そして、即円も嘉元二年から三年には亀隅成福寺にいた。

 沙祢淨敬 真壁盛時譲状
  譲り渡す、常陸国真壁郡内庄家公領の地頭職の事
  一  庄内の郷々
   大曽祢郷、伊々田郷、南小幡郷、竹来郷
  一  公領の郷々
   山宇郷、田村郷、亀隅郷、窪郷
  右、當郷は、沙祢淨敬の相傳の私領也、仍ち孫子彦次郎平幹重を嫡
  子として譲り与うる所也、向後、更に他の妨有るべからずの状件の
  如し
     正安元年(一二九九)己亥十一月廿三日   沙祢淨敬(花押)

 関東下知状
  平氏幷びに妹同氏字は祢々六郎定幹、真壁彦次郎幹重と祖父淨敬遺
  領を相論する事右、訴陳状の擬に就いて其沙汰有るの處、氏女等の今年正月□□□□連署状の如くんば、訴陳を番え、和与の儀を以って、永く訴訟を止め
畢ぬ□□□□□□□此上は異議に及ばず、彼の遺領においては、淨敬の正安元年十一月廿三日の譲状に任せて、幹重の知行相違有るべからずの
状、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し
   乾元二年(一三〇三)二月五日  相模守平朝臣北条師時)(花押)
                   武蔵守平朝臣北条時村)(花押)

正安四年(一三〇二)孟春廿三日巳尅於常州真壁成福寺書写畢 為令法住拭老眼写元乞[    ](鑁海ヵ)
正安四年(一三〇二)六月十五日於常陸国真壁郡亀隈郷成福寺講堂西庫書写畢 (梵字二字)(儀海ヵ)二十三
嘉元二年(一三〇四)極月廿一日於常陸国真壁郡亀隈成福寺方丈書写畢 筆師金剛仏子 即円廿五
嘉元二年(一三〇四)極月二十七日於常陸国成福寺方丈書了 金剛仏子儀海廿五
嘉元三年(一三〇五)三月十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈雖書写之或文字堕落或前後錯乱之間重書写畢 元亨四年(一三二四)八月九日於武州西郡恒常郷高幡不動堂御蔽坊書写畢 権律師儀海四十五歳
嘉元三年(一三〇五)三月十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈雖書写之或文字堕落或前後錯乱之間重書写畢
嘉元三年(一三〇五)三月二十一日於常州真壁郡亀隅成福寺方丈書写畢 二十六(儀海ヵ)
干時嘉元三年(一三〇五)五月廿六日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈書写了十七自年運懇干誠志干今不息間此書感得畢不可令披露之旨可任本記者也 金剛仏子即円廿六
延慶三年(一三一〇)六月五日於常州真壁郡山宇以方丈御本重交合畢 元亨三年(一三二三)四月十日同侶本文交合畢儀海
嘉元三年(一三〇五)六月十一日於常陸国真壁郡亀隈成福寺書写畢 即円廿六
嘉元三年(一三〇五)七月二十日於常陸国真壁郡亀隅成福寺方丈書写畢 金剛仏子 儀海
嘉元三年(一三〇五)七月廿日於常陸国真壁郡亀隈成福寺方丈書写畢 金剛仏子儀海
正和三年(一三一四)三月廿二日於常陸国真壁山宇成福寺以御筆本書写之畢 金剛資儀海

十  川俣甘露寺と儀海
福島県川俣町は川俣盆地を中心に絹織物の町として発展してきた町である。町の歴史は縄文時代の遺跡が多く残されていることから、原始時代の一万年も前にさかのぼれる。古代末から中世にかけて小手保といわれた川俣町は、奈良興福寺の荘園として繁栄した。甘露寺には紀州和歌山県根来寺の高僧が住み、川股城跡のふもとからは大量の常滑焼きが見つかっている。川俣町の地名のおこりには二つの説がある。一つはむかし、川俣町・飯野町月舘町などを含めた地域は「小手郷」と呼ばれていた。これは、養蚕・機織りの祖「小手子姫」の名前に由来するもので、川俣の地名も小手子姫の郷里、大和国奈良県高市郡川俣の里にちなんで名付けられたという説、もう一つは、町を流れる広瀬川(小手川)と富田村より流れる五十沢川が合流する地域(川股)の形状から、以来これを川股と称えたという説である。今から一四〇〇年の昔、崇俊天皇の妃、小手姫は政争によって蘇我馬子に連れ去られたわが子を探して川俣にたどりつき、養蚕に適していたこの地で、養蚕と糸紡ぎ、機械の技術を人々に教えたと伝えられている。
 信夫郡は、郡そのままが信夫庄という荘園と化し、平泉藤原氏と同族の佐藤氏が福島市飯坂大鳥城に居舘した。これを信夫大庄司といったが、大庄司というのは郡司が荘官を兼ねる場合の称えとされる。
興福寺荘園小手保庄は興福寺門跡である大乗院の荘園台帳『三箇院家抄』に、「小手保庄 陸奥国 五十日談義 関東右大将寄進」とある。興福寺僧が春日社頭で執行する五十日談義に奉仕する出勤料として、源頼朝から安堵されたことを示す史料である。保は多くに場合、国衙の管理下の在地有力者が中心となって開発された土地のことで、その開発者が保司となる。その土地は国衙領内であるが、私領的性格の濃い土地であったので、寄進契約などにより荘園化される例が多かった。小手保もこの場合のように、平泉藤原氏の寄進によって成立したのではなかろうかと想定される。『小手風土記』は「春日神社に、藤原秀衡奉納の太刀、佐藤庄司基冶の寄附之書があり、鶴沢鍛冶内に佐藤堂があって、基冶の持仏が安置され、本尊の後に大法坊円意とある」と記している。大法坊円位は、佐藤氏の同族西行法師の別名であるが真偽のほどはわからない。
 小手保が興福寺の荘園になると、神宮寺を建立し、寺の御法神そして荘園鎮守として春日社が勧請されたのであろう。神宮寺について明治初期に渡辺弥七の描いた図によると、その境内は現川俣小学校の西半分を占め、中央に本堂、西に護摩堂、東に庫裡の三棟が何面して一線に並び、大黒天碑・元三大師堂・山王権現堂・地蔵堂があつた。『小手風土記』には、大日堂・薬師堂・十王堂と釈迦堂があつた、今はなしと記し、『神宮寺年中古事覚日記』(大円寺蔵)に五重塔があって本地五仏(釈迦・薬師・地蔵・観音・文殊)を安置してあったが兵火に焼け落ち、近世になって草塔一宇が盛土の上に建ってあったとしている。さらに、『信達二郡村誌』にも、明治初年まで五重塔の基壇礎石があり、廃瓦が山積してあったと記している。神宮寺は荘園領主興福寺法相宗大本山であったから、当初は法相宗であったが興福寺真言密教化すると、神宮寺も真言宗となったであろう(『川俣町史中世』)。
 興福寺密教化は西大寺叡尊の戒律復興と共に、法相宗の解脱上人貞慶(一一五五~一二一三)によってなお進められた。貞慶は「興福寺奏状」も起草している。興福寺西大寺は本末の関係にある。文永・弘安の役後、寺社は朝廷・幕府の保護によりその勢力を増した。異敵の調伏に功があったという理由である。西大寺叡尊の弟子忍性も得宗北条氏と強い関係を築き全土に影響力を及ぼした。川俣の神宮寺も寺勢を増したであろう。頼瑜もこの地を訪れている可能性がある。儀海は頼縁がこの地にいて布教に努めたことにより川俣を訪れたのである。儀海は文保二年三月から元亨三年八月まで、甘露寺に留まっているようである。その書写の聖教類は膨大な量である。この寺の経済的背景が豊かでなくては成り立たないと思われる。甘露寺は次の真福寺文庫撮影目録の文書によれば神宮寺が該当するのではないだろうか。

文保二年(一三一八)三月廿日奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印頼―御本書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)三月廿九日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写了 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)四月四日於奥州陸国小手保河俣宿坊以先師法印御本書写畢 権律師儀海三十九
文保二年(一三一八)四月九日於奥州小手保河俣宿坊書写畢 金剛資儀海
文保弐年(一三一八)四月十六日於奥州陸国河俣宿坊書写畢 金剛資儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿三日奥州小手保河俣書写畢  金剛仏子儀海卅九
文保二年(一三一八)四月廿八日於奥州陸国小手保河俣宿坊書写畢  金剛仏子儀海卅九
文保三年(一三一九)四月廿五日於奥州陸国小手保書写了是偏為高祖御遺命御手印縁起三巻修学稽古之隙閣他事令染筆畢 三宝院末資律師儀海満四十
文保二年(一三一八)五月五日於奥州陸国小手保河俣書写畢  金剛資□□(儀海)
文保二年(一三一八)五月十三日於奥州河俣書写畢  金剛資□□(儀海)卅九
文保二年(一三一八)五月十六日於奥州小手保河俣令染筆畢 権律師儀海卅九
文保二年(一三一八)季五月廿日於奥州小手保河俣書写畢 三宝院末資儀海
文保二年(一三一八)五月廿一日於奥州河俣書写畢 求菩提沙門儀海
文保二年(一三一八)季五月廿二日於奥州小手保河俣酉尅令染筆畢 金剛資儀海
文保二年(一三一八)五月二十四日於奥州河俣書写畢 儀海三十九
文保二年(一三一八)五月廿五日於奥州小手保河俣令染筆畢 金剛資儀海三十九才
文保二年(一三一八)五月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼―遺跡以御本書写畢 権律師儀海卅九才 已上十八巻以御自筆本書写畢 儀海
文保二年(一三一八)十月四日於奥州小手河[  ] 儀海
文保三年(一三一九)七月十四日於奥州陸国小手保河俣先師法印以御本書写畢 三宝院末資儀海四十
文保三年(一三一九)閏七月五日於奥州河俣先師頼―法印以御本書写
文保三年(一三一九)閏七月七日於奥州陸国小手保河俣先師頼瑜法印以御本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)閏七月六日於奥州小手保河俣以御本写畢 義(儀)海
元応元年(一三一九)閏七月九日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写了 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十四日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御自筆御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月十七日於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)閏七月廿八日於奥州小手保河俣先師法印頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
元応元年(一三一九)八月四日時正第二於奥州陸国小手保河俣先師法印頼瑜以御本書写畢 金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)八月五日時正第三於奥州小手保河俣先師法印頼瑜以御本已上十五巻書写功畢 金剛資儀海生年四十
元享二年(一三二一)四月十二日於奥州小手保河俣甘露寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三一九)卯月十二日於奥州六陸国小手保河俣甘呂寺先師法印以御本書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月一日於奥州小手保河俣坊以先師法印頼―御本書写畢 権律師儀海四十三
元亨二年(一三二一)五月八日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海
元亨二年(一三二一)閏五月十五日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢 金剛資儀海四十三
元享二年(一三二一)五月二十三日於奥州陸国小手保河俣甘呂寺先師法印頼瑜以御本書写畢権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)六月十九日於奥州小手保河俣甘露寺護摩堂書写畢此抄物正和二年(一三一三)五月十三日於高野山金剛峯寺雖書写之失本之間重後書写之偏戸是為無上菩提興隆仏子也 権律師儀海四十三
元享二年(一三二一)八月七日於奥州小平保河俣書写畢 同十八令交合畢 金剛資儀海四十三
元亨三年(一三二二)八月十八日於奥州小手保河俣宿坊以先師法印頼瑜御本書写畢 権律師儀海四十四

十一 鎌倉大仏と儀海
徳治二年三月二日、関東に大地震一代要記)。徳治三年七月九日の子刻(午前零時)真夜中であるにもかかわらず、将軍久明親王は佐介ヶ谷より出御して上洛。将軍の地位から降ろされた。このとき三十四歳。その子守邦親王が、わずか七歳で将軍識についた。この頃、北条貞時も祖父時頼以来の廻国使という密偵を諸国に派遣していたことが、『北条九代記』の異本に記されている。同年八月、平政連、北条貞時に諌書を進める。その内容は箇条書きで、㈠政術を興行せらるべき事、㈡早く連日の酒宴を相止め暇景の歓遊を催さるべき事、㈢禅呂の屈請を省略せらるべき事、㈣固く過差を止めらるべき事、㈤勝長寿院を造営せらるべき事の五ヶ条を得宗北条貞時に献言する目的であった。徳治三年は十一月に延慶と改元する。延慶元年十一月、兼好法師称名寺長老の書状をもって帰洛(金沢貞顕書状に「兼好帰洛之時同十二日禅礼」とあり)金沢貞顕に呈す。同月釼阿、称名寺長老に就任。最近の研究では兼好の鎌倉滞在については疑問視されているが、従来の説によれば兼好は金沢の地にいたことになる。この時期、儀海と即円は共に慈根寺より鎌倉大仏谷の佐々目僧正と呼ばれた頼縁のもとに往き来している。兼好と儀海、即円は鎌倉の何処かで出会い、大仏をどのような思いで眺めていただろうと想像すると楽しい。
徳治二年(一三〇七)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)七月十七日於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)七月廿四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月二十四日於相州鎌倉大仏谷午尅令染筆畢 金剛資儀海
徳治二年(一三〇七)七月卅日於鎌倉大仏谷巳尅許書写畢 願以書写生々世々値遇大師密教聴聞 金剛仏子儀海
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏谷入戌尅令交合畢
徳治二年(一三〇七)於相州鎌倉大仏谷申尅書写畢 金剛資即円廿八
徳治二年(一三〇七)八月十二日於相州鎌倉大仏入戌尅令交合畢
徳治三年(一三〇八)四月廿六日於鎌倉大仏谷書写畢 金剛仏子儀海
徳治三年(一三〇八)四月二十九日於鎌倉大仏谷令染筆畢 義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 金剛資義海
干時徳治三年(一三〇八)五月六日於相州鎌倉大仏谷辰尅令染筆畢 願以書写生々世々値遇大師聴聞密教 金剛資義(儀)海
徳治三年(一三〇八)五月十七日於相州鎌倉大仏谷辰 令染筆了金剛資儀海二十九

十二 高野山と儀海
高野山弘法大師空海が修禅の道場として一院を建立したのにはじまる。そして空海の入滅の地である。真言宗の聖地で、現在世界遺産に指定されている。中世の高野山を支えたのは高野聖達である。儀海が高野山を訪れたのは根来寺に来寺していた時であろう。
蓮華谷誓願院については荒五郎発心譚がある。これは『高野山通念集』が『蓮華谷誓願院縁起』の荒五郎発心譚としてのせるものであるが、『沙石集』巻九が「悪縁に値うて発心する事」にとりあげているから、その発生は鎌倉中期以前までさかのぼることができよう。しかし『通念集』では、この発心した高野聖阿弥陀仏の名を荒五郎とし、かれの住房誓願院の本尊を京都三条京極の誓願寺からむかえるなど、誓願寺時宗聖の手がはいっているようである。この物語の荒筋は、京都三条の荒五郎なるものが、貧乏のために妻にそそのかされて、ある夕暮れに、下女をつれた美しい若妻を刺し殺して、血染めの小袖をはぎとる。これを持って家に帰り妻にあたえると、つまはその美人のながい髪の毛も、なぜ切り取ってこなかったかと責めた。これを聞いて荒五郎は、女の貪欲と残忍に無常を感じて高野にのぼり、蓮華谷の誓願院にはいって、由阿弥陀仏と名のった。ちょうどそのころ、この寺に勒阿弥陀仏という道心者がおっていつしか仲良くなったが、ある夜ふけに、ふとお互いの発心の動機を話し合うことになった。由阿弥陀仏がさきに殺人の罪の懺悔話をすると、勒阿弥陀仏は被害者の着衣や日時から、わが妻であったことを知り、その奇縁におどろく。かれも最愛のつまを人手にかけられて世の無常を知り、出家して高野に登っておったのである。しかしいまは仏道にはいって恩讐をこえた身であるので、これを機にいよいよ道心堅固にして女の後世をとむらった。ところがこの誓願院はたいそう衰微していたから、由阿弥陀仏は京の三条殿に勧化してこれを中興するについて、三条京極の誓願寺の本尊と同木の阿弥陀如来像をむかえたというのである。(五来重著『高野聖』)
南谷には成就院が今現存する。儀海は高野山金剛峯寺南谷宿坊での聖教類を書写した奥書に「報恩院末資権律師儀海」と記している。報恩院は醍醐寺の寺院である。醍醐寺京都市伏見区醍醐にある真言宗醍醐派総本山で、寺伝では貞観十八年(八七六)に理源大師聖宝が開山とある。醍醐寺院政期になると、源氏系貴紳が相次いで入山し、特に事相の面で業績を残し東密事相小野流(野沢二流)の中心の地位を得るにいたった。報恩院は成賢(一一六二~一二三一)によって建立され、報恩院は醍醐寺の門跡を輪番で勤めた三宝院・理性院・金剛院・無量寿院と共に醍醐の五門跡の一つと言われている。

正和二年(一三一三)五月十七日夜戌尅於高野山蓮華谷誓願院書写了 求法沙門(梵字二字)(儀海ヵ)
正和二年(一三一三)七月九日於高野山金剛峯寺蓮華谷誓願院書写畢 此書聞名字年久雖然未得之今幸感得之至宿願処以如是云々 権律師義海卅四
元応元年(一三一九)七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 
以書写功為生々世々大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才
元応二年(一三二〇)五月廿六日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)六月三日於高野山金剛峯寺釈迦文院書写畢 儀海
元応二年(一三二〇)七月二日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写畢 権律師儀海
元応二年(一三二〇)七月五日於高野山金剛峯寺南谷宿坊賜師主御自筆御本書写畢 願以書写功為当来大師値遇之縁成聴聞密蔵之因耳 報恩院末資権律師儀海四十一才
元応二年(一三二〇)七月六日於高野山金剛峯寺南谷宿坊書写了 願以書写功為当来大
師値遇縁而已 金剛資儀海四十一
干時元応弐年(一三二〇)七月八日於高野山金剛峯寺書写畢 金剛仏子儀海

 十三 根来寺と儀海
根来寺 和歌山県那賀郡岩出町にある新義真言宗の総本山。一乗山大伝法院と号す。初め豊福寺と称したが、保延六年(一一四〇)覚鑁高野山から退き、一乗山円明寺を建立して鳥羽上皇(一一〇三~一一五六)の勅願寺とした。正応元年(一二八八)頼瑜は覚鑁高野山上に建立した〈大伝法院〉と〈密厳院〉を移し、ここで新義真言の教学を大成した。戦国時代には堂塔伽藍二七〇〇余、寺領七十二万石となり、強力な根来僧兵を置いた。
 真言密教の中興の祖・覚鑁は、空海の師であった恵果阿闍梨の生まれかわりといわれている。その根拠は、覚鑁に帰依した鳥羽上皇の夢にちなむものである。鳥羽上皇はある日、夢に恵果和尚を見た。他日、覚鑁の相貌をまじかに見たところ、恵果和尚とまったくちがうところがないことに気がつき、深く帰依することになったという。このような夢は作り事と言われ、今は即座に否定されてしまうが、中世の夢はそれが現実とつながっていた。人々は夢を日記に書きとめ信じ行動していたのである。興福寺大乗院の尋尊も夢をさかんに書きとめている。有名な話であるが、後醍醐天皇が楠正成に出会うきっかけとなったのも夢であった。酒井紀美著『夢から探る中世』はその夢と現実についてよく書かれている。
儀海は永仁三年(一二九五)十六歳の時に最初に訪れ、この時は頼瑜と頼縁に出会っていると思われる。元応元年(一三一九)から同二年霜月廿日までに実に多くの聖教類を書写している。
永仁三年(一二九五)正月十五日於根来寺大谷院之草庵以草案本書写之畢 金剛資儀海
永仁三年(一二九五)閏二月十四日根来寺中性院書写畢 頼縁 儀海
元応元年(一三一九)十一月廿三日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写畢 権律師儀海
元応元年(一三一九)十一月廿五日於紀州根来寺中性院以御自筆御本書写了畢 金剛資儀海四十 一交了
元応元年(一三一九)十一月廿六日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月二日於紀州根来中性院以自筆御本書写畢金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月七日於紀州根来寺以中性院御本書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月八日於紀州根来寺以中性院御自筆御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十
元応元年(一三一九)霜月九日於紀州根来豊福寺中性院書写了 求法沙門儀海
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来中性院々々々之御自筆之以御本書写畢願以書写之功為世々大師値遇之縁而已 権律師資儀海四十一
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 金剛資儀海
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資儀海四十一
元応元年(一三一九)十二月十二日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 願以一部 四巻書写劫開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十
元応元年(一三一九)十二月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢右一部八巻以書写開自他恵開兼為当来得脱之縁矣南無大師偏照金剛 金剛資儀海四十 
元応元年(一三一九)十二月十七日於紀州根来寺中性院以御自筆本書写畢 三宝院末資
権律師儀海四十一
元応元年(一三一九)十二月廿日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜本書写畢 金剛資
元応元年(一三一九)十二月二十七日於紀伊国根来寺中性院以御本書写了 権律師儀海四十
元応元年(一三一九)十二月卅日於紀伊国根来寺中性院以御本―書写畢願以一部四巻書写功開自他共恵解為当来得脱因矣 権律師金剛資儀海四十
元応二年(一三二〇)正月三日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜書写畢 金剛仏資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月五日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜本書写畢 後中性院房主頼淳御―云此書唯一人五房之主良殿兄也許之未許余人云々 三宝院末資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月八日於紀伊国根来寺中性院以御本頼―書写畢 醍醐寺三宝院末資儀海四十一 一交了
元応二年(一三二〇)正月十一日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 金剛資儀海四十一 
元応二年(一三二〇)正月十二日於紀州根来寺中性院以御本頼―書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月十四日夜子尅於紀州根来寺中性院以御本頼瑜書写了以此書写功為当来得脱縁矣 金剛資儀海卌一
元応二年(一三二〇)正月十八日於紀州根来寺以中性院之御自筆御本書写畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)正月十八日於紀伊国根来寺中性院以御本頼瑜書写畢願以書写功当
来大師値遇縁宜自他開恵殊矣 三宝院末資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月廿二日於紀州根来中性院以御自覚(筆)頼―本書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月廿五日夜子尅於紀州根来中性院以御自筆頼瑜本書写畢 願以書写功為生々大師値遇之縁兼祖師中性院并先師法印奉廻向御菩提惣開自他恵解共大覚位矣南無大師遍照金剛 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)正月廿八日於紀州根来中性院書写畢
元応二年(一三二〇)正月晦日於紀州根来寺以中性院之御自筆之御本書写了金剛資儀海
元応二年(一三二〇)正月晦日夜子尅於紀州根来寺中性院書写了 権律師儀海卅一
元応二年(一三二〇)二月四日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢
元応二年(一三二〇)二月四日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
元応二年(一三一九)二月四日於紀伊国根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 三宝院末資権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)二月八日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)二月十二日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 金剛資儀海四十一
元応二年(一三二〇)二月十六日於紀州根来寺以中性院之御自筆本書写畢 金剛仏子儀海
元応二年(一三二〇)二月廿五日於紀州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢 願以書写功必為当来大師値遇之縁而已 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)八月廿四日於紀伊州根来中性院以御自筆頼瑜御本書写畢願以書写功徳為当来大師値遇之縁重為祖師御菩提廻向畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)八月廿四日於紀伊根来寺中性院以御自筆頼瑜御本書写畢願以書写功徳為当来大師値遇之縁重為祖師御菩提廻向畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)九月七日於紀州根来寺中性院以御自筆頼瑜御本為仏法興行令書写畢 権律師儀海生年四十一
元応二年(一三二〇)九月十二日於根来中性院以御自筆頼瑜御本子尅令染筆畢為是偏無上菩提興隆仏法也 願以書写生々値遇大師密教聴聞三宝院末資権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)九月十六日於紀州根来寺中性院書写畢 権律師儀海四十一 御自筆以御本重交合畢
元応二季九月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼―御本書写畢 願以一部三巻書写功為当来大師値遇之縁兼開自他恵解畢 権律師儀海四十一
元元応二年(一三二〇)季九月十六日於紀州根来寺中性院以御自筆頼―御本書写畢 願以一部三巻書写交為当来大師値遇之縁兼開自他恵解畢 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)十月十七日於夜丑時紀州根来豊福寺中性院書写畢 願以書写功為当来大師値遇之縁而已 金剛資儀海卌一
元応二年(一三二〇)十月二十七日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 金剛資儀海
元応二年(一三二〇)十一月廿三日於紀州根来中性院以御自筆畢 権律師儀海
元応二年(一三二〇)霜月五日夜於紀州豊福寺中性院丑尅除睡眠為仏法興隆書写畢 権律師儀海四十一才
元応二年(一三二〇)霜月九日於紀州根来豊福寺中性院書写畢 求法沙門儀海
元応二年(一三二〇)霜月十五日紀州豊福寺中性院丑時尅書写畢 権律師儀海四十一
元応二年(一三二〇)霜月廿日紀州根来寺豊福寺中性院書写畢 権律師儀海

十四 儀海と高幡不動尊
正式名高幡山明王金剛寺、別称高幡不動金剛寺は東京都日野市高幡にある真言宗智山派別各本山の寺院、高幡不動の通称でしられる。本尊は不動明王。古来関東三不動の一つにあげられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば、大宝年間(七〇一)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る一一〇〇年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願によって当地を関東鎮護の霊場と定め、山中に不動堂を建立し、不動明王を御安置したのに始まる。のち建武二年(一三三五)八月四日夜の台風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(一三四二)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方を始めとする戦国武将の尊崇をあつめた、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。

〔銅造鰐口刻銘〕
 (第一面)
 敬白 奉懸
 右、尋當寺者慈覚大師建立 清和天皇御願所 第二建立平円陽成天皇
 彼時頼義朝臣 自於登山 奉崇八幡 第三建立永意得秘密両檀
 大旦那美作助貞幷記氏一宮田人鍋師源恒有
  文永十年癸酉五月二十日
             銀念西守氏 鋳清連
 (第二面)
 武州高幡常住金剛寺虚空蔵院別当法印
 等海
                  願主乗海
  文安二年乙丑二月二日

高幡不動尊火焔背銘〕
 武州多西郡徳常郷内十院不動堂修複事 右此堂者、建立不知何代、檀那又不知何人只星霜相継、貴賤崇敬也、然建武二年乙亥八月四日夜、大風俄起、大木抜根柢、仍当寺忽顛倒、本尊諸尊皆以令破損、然間暦応二年己夘檀那平助綱地頭幷大中臣氏女、各専合力励大
 功、仍重奉修造本造一宇幷二童子尊躰、是只非興隆佛法供願、為檀那安穏・四海泰平・六趣衆生平等利済也、仍所演旨趣如件
   康永元年壬午六月廿八日修複功畢
 別当権少僧都儀海
     本尊修複小比丘朗意
             大檀那平助綱 大工橘広忠
             大中臣氏女  假冶橘行近

 儀海は嘉元四年(一三〇六)二十八歳の時、由井横河慈根寺で「秘鍵草」「秘蔵開蔵鈔本」「大日経疏指心抄第一」等頼瑜の本を写して以来、現八王子西部の永徳寺・虚空蔵院・長楽寺・延福寺で開かれた頼縁の講筵に参加し、聖教の書写を精力的に行っている。従って儀海は二十代後半の比較的早い頃から多摩地方に縁を持っていた僧であるが、この事は細谷勘資氏が一九八九刊の『八王子の歴史と文化』第一号で指摘している通り、大仏谷を本拠とした師の頼縁が由井氏と特別なつながりをもっていた事によるものであろう。儀海が高幡不動堂を本拠としていつから止住し、いつまで活躍したかその年月は明らかではないが、元亨四年(一三二四)四十五歳の折、高幡不動堂弊坊で「理趣釈口決鈔第七」を書写しており、その後正中二年(一三二五)に同じく高幡不動堂弊坊で「阿字観秘釈巻上・下」を書写し、さらに元徳元年(一三二九)には師の鑁海を高幡不動堂に迎えて最後の伝授を受けているので、この頃には常住の状態になっていたと考えても間違いないと思われ、それ以後文和三年(一三五四)に弟子宥恵に各種印信をさずけているので、凡そ三十年と見るのが妥当なところであろう。この三十年間は儀海教学の仕上期間であり、その盛名を慕って各地から新義の学僧が数多く儀海の膝下に馳せ参じて勉学に励んでいる。殊に大須真福寺関係の学僧は開山の能信をはじめ実快・能秀・良賢・良慶など数多くの僧が高幡不動堂で学んでおり、また儀海が格別な思いを抱いていたと思われる弟子の宥恵も儀海から伝授された印信を大須真福寺第二世信瑜に伝えているので、本来は大須真福寺と関係あった僧であろう。尚大須関係の僧達は儀海没後と思われる延文年間以降も宥舜・宗恵・良慶・祐信・頼済等の僧が高幡不動堂をはじめ長楽寺・大塚宿坊・由木宿坊・河口別院など儀海ゆかりの寺々を訪ねて聖教の書写に励んでいる(川澄祐勝氏「儀海上人と高幡不動尊金剛寺」『多摩のあゆみ』第一〇四号)。
「大塚宿坊」は大塚の清鏡寺の前身あるいは同所にある観音堂、「由木宿坊」は別所の蓮生寺であろうか。清鏡寺は、文禄元年(一五九二)長銀が再興開山したものであるが、ここには鎌倉時代の作とされる十一面観音立像がある。また蓮生寺については、『吾妻鏡』寿永元年四月二十日条に僧円淨房が平治の乱の後、武蔵国に来て蓮生寺を建立したという記事があって、両者は同じ寺と考えられている(『細谷勘資』)。
 元弘三年(一三三三)五月八日、新田義貞上野国新田郡生品神社鎌倉幕府打倒の旗揚げをした。そして、足利方と協力し上野・越後・武蔵の兵を糾合して武蔵小手指ヶ原の合戦に臨み、つづいて久米川・分倍河原・関戸と北条方を撃破し鎌倉を落とし北条氏を滅ぼした。元弘の戦いである。武蔵国北条氏の重要な地盤であった。この地の武士たちもどちらかの陣営に馳せ参じて戦ったと思われる。この時、横山氏直系子孫の横山重真は新田勢に加わり鎌倉で討死した。儀海はこの翌年に由井横河慈根寺にいた奥書があるので、この合戦の時には高幡不動尊におり戦いの帰趨を見守っていたと思われる。敗戦ともなれば寺に逃れ自害となることは京徳の乱(一四五四)の際に上杉憲顕がこの寺で自害していることから、このように大規模な分倍河原の戦いでは、その勝敗が重要であったと思われる。
楠正成の出自については、さまざまな説が出され、商業活動に従事した隊商集団の頭目という側面が強調されている。一方、楠という名字の地が摂津・河内・和泉一帯にないことから、土着の勢力という通念に疑問が出され始めている。『吾妻鏡』には、楠氏が玉井、忍、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党の武士団と並んで将軍随兵となっており、もとは利根川流域に基盤をもつ武蔵の党的武士だった可能性が高い。武蔵の党的武士は、早くから北条得宗家(本家)の被官となって、播磨や摂河泉など北条氏の守護国に移住していた。河内の勧心寺や天河など正成の活動拠点は、いずれも得宗領だった所であり、正成は本来得宗被官として河内に移住してきたものと思われる(海津一朗著『楠木正成と悪党』)。
新人物往来社刊『全譯吾妻鏡』二、建久元年十一月七日条、次の随兵四十二番、に楠四郎とある。海津一朗氏の説を地域的に考えれば新田氏と楠氏の接点はかなり近いと言えないだろうか。越後の新田氏の一族が義貞の旗揚げの日に間に合うのには当時の交通事情からすると、事前に義貞が楠正成と綿密に連絡をとりあっていなければと思われる。千早城攻めから義貞が撤退した時点では、すでに幕府に反旗を翻す計画が正成との間で決まっていたと思われる。
 高幡不動尊不動明王坐像の胎内から発見された胎内文書は、暦応二年(一三三九)に山内経之が高師冬の陣に加わり、北畠親房常陸駒城での合戦場から家族宛に送られた書状である。その内容は残された家族を心配する深い愛情に溢れている。そして、寺(高幡不動尊)に対して戦費の借用などを頼みこむものである。『日野市史通史二(上)』に詳しいので参考とされたい。
➉月日不明(暦応二年)、経之書状、僧の御方・六郎宛
下河辺庄の向いに着きました。下向しない人は所領を没収されると言われています。その他訴訟をする人などは本領までもとられるとのことです。笠幡の北方の「しほえ殿跡」も………いかにしても銭二、三貫文ほしいのです。大進房に仰せて銭五貫文を借りて下さい。
⑫十月八日(暦応二年)、経之書状、又けさ宛か
寺に申して苦くないお茶をもらって下さい。干柿やかち栗も送って下さい
⑩月日不明山内経之書状の「僧の御方」はその丁寧な言い回しから儀海宛であろうと思われる

元亨四年(一三二四)八月九日於武州西郡恒常郷高幡不動堂御坊書畢 権律師儀海四十五歳
正中二年(一三二五)七月三日於武州高幡不動堂蔽坊書写畢 為偏是旡上菩提更無二心而已 権律師儀海四十六
嘉暦二年(一三二七)十月七日於武州多西郡高幡不動同虚空蔵院弊坊書写了 願以一部十巻書写之功生之世之為大師値遇縁而已 権律師儀海
嘉暦二年(一三二七)九月廿日為興隆仏法書写畢 願以書写功為生之世之大師値遇之縁而已 金剛資(梵字二字)(儀海ヵ)
元徳元年(一三二九)十二月三日於武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢 右此秘決者先師(梵字二字)(鑁海)上人最後対面之時奉伝授了 誠是依数年之懇功令盛況之権律師儀海 私云酉酉正教与欠受之 私云此抄作者主決之極位加持門之有作伏間根来寺方聖教仁毛哉有之明師ニ可問之可稔云云 右此書者越前金津惣持寺院家不出雖為一代信州諏訪大坊日増法印似初仕数年之懇切テ雖稔書写畢 越中全山台金寺之住呂融儀不思議之感況之可稔云々
元徳元年(一三二九)十二月三日武州多西郡高幡不動堂蔽坊書写畢右此秘决者先師最後対面之尅奉伝授之畢或是依数年之懇切令感徳之畢 権律師儀海
元徳二年(一三三〇)正月四日於高幡不動堂弊坊書写了 金剛資儀海五十一才
空無相理釼印之事 一巻   右於武州虚空蔵院道場授両部潅頂畢 観応三年(一三五二)歳次壬辰三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
伝法潅頂阿闍梨位事(三宝院憲深方幸心流印信)
観応三年(一三五二)三月二十八日胃宿日曜 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
授大法師宥恵(三宝院憲深方幸心流印信)
文和二年(一三五三)三月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
二所皇大神宮麗気秘密潅頂印信 一紙(奥書)
文和二年(一三五三)癸巳五月二十一日 伝授阿闍梨法印大和尚位儀海
     端裏「麗気 宥恵」
文和二年(一三五三)十月十六日能信示之傳受阿闍梨法印大和尚位儀海
文和三年(一三五四)四月十九日信慶示之傳受阿闍梨和上大和尚位能信
文和三年(一三五四)七月二十一日於武州高幡不動堂此口决相承了 金剛資宥恵伝授阿闍梨法印大和尚位儀
阿闍梨位宥恵 授印可(三宝院憲深方幸心流印信)
賢密堕情論談鈔 二冊(奥書)
干時文和二年(一三五三)癸巳四月晦日書写畢 武州定光寺談所府中南町上下□同寺令写畢 但書写之趣必好承意◆目残為稽古同旨雖毛間不顧其令書写畢 同□□毛如法如法々々々々々々々々 頼舜 美濃国方郡福光郷真福寺□門為仏法求学分武蔵国府中安栄寺所学之干数外同此両局難□無中局[   ]
延文六年(一三六一)二月七日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶   一交畢
延文六年(一三六一)二月十日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶 一交畢
延文六年(一三六一)二月十三日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶
延文六年(一三一八)二月十七日於武州多西郡大塚宿坊書写畢 執筆良慶 一交畢
延文六年(一三一八)二月廿日於武州多西郡由木宿坊書写畢 執筆金剛資良慶 一交畢
 延文六年(一三六一)三月十八日於武州多西郡横山書写畢 執筆三位 同三月廿日於同
     州同郡河口長楽寺別当坊交合畢良慶 



十五 立川流と儀海の立場
 〔謎めいた邪教のルーツ〕
「近ごろ、世間には、『女犯は真言一宗の肝心、即身成仏の至極なり。女犯をへだつる念をなさば、成仏、道遠かるべし、肉食は諸仏の内証、利生方便の玄底なり。肉食をきらう心あらば、生死を出る門にまようべし。されば淨不淨を嫌うべからず。女犯肉食をもえらぶべからず』と説く経文が広がっている」。真言宗の僧侶で、越前国豊原寺の誓願房心定が、『受法用心集』のなかでこう嘆いたのは十三世紀のことである。この時代、即身成仏の奥義は男女の性交と肉食にあると説く真言立川流は、僧俗を問わず、広く中世人の魂を魅了していた。その発生をたどると、京都醍醐寺に住して東院阿闍梨ともよばれ、将来、同寺の座主につくことは間違いないと目されていた高僧、仁寛阿闍梨に行きつく。すでに三十年の長きにわたって左大臣職にある源俊房を父に、東寺の一の長者で三宝権僧正の勝覚を兄にもち、そのほかの兄弟もすべて高位高官という恵まれた境遇にあった仁寛は、ふとしたきっかけから天皇の継承問題にまつわる内紛に巻き込まれ、永久元年(一一一三)十一月、鳥羽天皇殺害を謀ったとの嫌疑で伊豆大仁の地に流された。そして、それからわずか五ヶ月後の翌三月二十三日、配流先の大仁の岩場から身を投げて果てるのだが、その間に、後に立川邪教と呼ばれるようになった教義を新弟子の陰陽師に伝授したとされる。「武蔵国陰陽師が仁寛に真言を習い、それを陰陽道に引き入れた。そして、邪正混乱・内外混乱の一派を立てて立川流と称え、真言密教の一流派を構えた。これが邪法の濫觴(始まり)である」(『宝鏡鈔』)仁寛から三世紀はど後の高野山の宥快は、こう記している。
この弟子を、武蔵国立川(東京都立川市)出身の陰陽師・見蓮とする説や、仁寛自害後、高野山に上がって潅頂を受け、同地で寂した定明房覚印が見蓮で、以後立川流がひそかに高野山などの真言僧に浸透していったとの説もあるが確証はない。ともあれ立川流は、この仁寛に由来する理論によって芽吹き(仁寛に法を伝えたのは兄の勝覚との説もある)弟子の陰陽師たちがそこに種々の陰陽道説や邪見を加え、一部僧侶らも加担して儀軌・経典類を備えて次第に完成していったというのが定説である。やがて、十四世紀にいたると、その教えは本拠地である関東・北陸から中部を経て、近畿一円、さらには四国を除く西国にまで広まっていた。その宣伝に最も力があったのが武蔵国立川を拠点とする陰陽師だったため、世間ではその信者を指して「あれは立川だ」と呼称し、ために立川流という名称が定着したのであろうと、真言宗大僧正の守山聖真は名著『立川邪教とその社会的背景の研究』で述べている。
立川流は単なる異端邪教ではなかった。先に見てきたように、教相と事相を備え、膨大な経典類をかんびしていた。その中心経典は「三経一論」と呼ばれる。三経とは三つの経典がセットで三種、つごう九種の経典からなる。誓願房心定が書写したリストには唐の一行訳とされる『五蔵皇帝経』『妙阿字経』『真如実相経』の一セット。不空三蔵訳の『七甜滴変化自在陀羅尼経』『有相無相究竟自在陀羅尼経』『薬法式術経』一セット。善無畏三蔵訳の『如意宝珠経』『遍化経』『無相実相経』一セットの三経と『一心内成就論』が挙げられるが、いずれも立川流行者・僧侶による偽経である。
大胆に性を肯定し、呪法による現世利益と即身成仏をといた立川流は、実に広範な信者を獲得し、他宗にも強い影響を及ぼした。たとえば日蓮が弟子の四条金吾に宛てた書簡には、「男女交合のとき、南無妙法蓮華経ととなうるところを、悩即菩提、生死即涅槃というなり」という一節がみられる。また、浄土真宗では、高田専修寺の真慧(十五世紀)がこんなことを書いている。「息の出入りに阿弥陀仏あれば、口中は阿弥陀の道場なり。かくのごとく領解するを往生というなり。……(南無阿弥陀仏は)一切衆生の父母なり。父母とは、阿とは母、吽は父なり。……この息、口を開けば阿と出入りす。出息は阿と出、入息は吽と入る。これ息位成仏のいわれなり」(『十箇の秘事』/速水侑『呪術宗教の世界』より引用)ここでは、男女の性的交わりによって即身成仏にいたるという立川流の思想が、「南無阿弥陀仏」を唱える阿吽の呼吸に置き換えられている。阿吽の意義づけは、先の立川流の理論のところで説明した。立川流の性的シンボリズムがいかに当時の人々の心を深く魅了したかが、この文意からも伝わってくる。浄土宗にも同じような異端があつた。その流派に属するものは、念仏の「念」の字を「人二人ノ心」と分解した。そして、往生にいたる念仏とは、念の字に秘められているように、男女二人が交わって恍惚境に入り、心がひとつになった刹那に発する「南無阿弥陀仏」の一念だと主張したのである。
けれども、既成仏教の根底を揺るがし、社会秩序の紊乱にも直結しかねない立川流は、いつまでも放置されることはなかった。立川流撲滅に立ち上がった僧侶のよる弾劾、立川流経典・著作の焚書などが行われ、立川流という「邪教」「悪見」に染まると、仏教を守護する諸天の罰をこうむり、事故死や変死、物狂い、疫病死、自殺、夭折などろくな死に方はせず、死後も無間地獄に落ちて永遠の業苦のなかに沈まなければならないという宣伝が、広く行われた。こうした惜敗撲滅運動が功を奏し、立川流の熱病のごとき流行も、戦国時代にいたるころにはようやく下火になった。(『真言密教の本』学研刊より引用)
立川流 醍醐三宝院勝覚(一〇五九~一一二九)の俗弟仁寛が始祖とされる。仁寛は御三条天皇の第三皇子である輔仁親王の護持僧であったが、謀反の企てに座して永久元年(一一一三)伊豆に配流され、名を蓮念と改めた。仁寛は在俗の人々に真言密教を授けていたが、武蔵国立川の陰陽師がそれを習うとともに、陰陽道密教に混入して広めた。後世これを〈立川流〉と称するようになった。この間の経緯は詳細ではないが、その法流の兼蓮・覚印・覚明やその弟子系統の道範や明澄などを通じて高野山泉州・丹後に伝播し、勧修寺流良弘の付弟真慶による太古流もその一派と見られ、さらに多くの門流の人々によって諸国に流布され、浄土宗や浄土真宗にも影響している。なお南北朝期に弘真(文観)が出て大成したと伝える。
 その教義は、大仏頂首楞厳経第九に「男女二根は即ち是菩提涅槃の真処」とあり、『理趣教』巻下に「二根交会して五塵の大仏事を成ず」ということに基づき、陰陽男女の道を即身成仏の秘術とするなど、性の大胆な肯定が見られ、しばしば邪教として排撃され、たとえば宥快の『宝鏡鈔』などには、その系譜・教理・典籍などを示し、批判をしている。このため、残存する典籍が少なく、実態は不明のところが多い。しかし神道への影響も見られ、中世において無視できない思想潮流である。天台宗玄旨帰命壇と対比される。
 立川流についての研究書は多いが、守山聖真櫛田良洪・笠間良彦・真鍋俊照の各氏が出版されている。櫛田良洪氏の説よれば、称名寺に伝わった意教流は立川流で、その法脈は、蓮念・見蓮・覚印・覚秀・淨月・空阿・慈猛・審海となっている。儀海も、慈猛・鑁海・儀海とその法脈を伝授している。しかし、櫛田良洪氏によれば、これらの立川流には邪見の入り込む余地はないと指摘されている。そして、称名寺の別の立川流である女仏については明らかに邪流であるとされている。
「…一つだけ未解決の大問題がある。それは平安末から鎌倉前期にかけて流行し、教義と実践の両面で無視できない影響を与えた密教の一形態である。具体的にいえば、真言系の立川流と天台系の玄旨帰命壇である」(立川武蔵・頼富本宏編『日本密教』)。
 多摩川をはさんで武蔵国立川(東京都立川市)と高幡不動尊(東京都日野市)は位置する。距離にすると約四キロメートル程であろう。立川流発祥の地は、現在東京都立川市にある諏訪神社辺と思われる。
晩年の儀海は高幡不動尊に常住していた。寺の記録によれば観応二年(一三五三)二月二十四日の示寂とされるが、謎の部分もある。応永二十二年(一四一五)二月、沙門乗海が金剛寺不動堂を旧地に移築することを発願し、勧進帳を作る。この勧進帳には儀海について次のように記されている「……しかるに去る建武二年(一三三五)のころ、一人の沙門あり。精舎の風損顛沛を嘆きて、奔営修興造りおわんぬ。すでになりて行方知らず退失す。ひとえに冥慮と謂いつべし。……」。勧進状は発願者乗海が、当時の名文家・神代寺長弁和尚にその案文を依頼したもので、その草案は長弁の文集「私案抄」にも載っているが、当時きっての名文家長弁の文学的表現によるものであり修飾されているようであるが、文和三年(一三五四)までは生存が確認できる。儀海の生年は弘安二年(一二七九)と推定させるので文和三年には七十六歳となり、当時としては相当な長寿であった。金剛寺文書には室町後期に法流相承の失敗があった旨の記述があり、これが儀海の最晩年について謎となる原因であると思われる。

あとがき
筆者は終戦の年、父母は母方の縁を頼って南多摩郡元八王子村に疎開して、村の慈根寺跡(後に知った)で生まれた。母の叔母の一人は福島県川俣町(川俣甘露寺跡)に縁づき、一人は岡山県新見市に嫁いで、真壁姓となった。この地の真壁氏は茨城県桜川市真壁町亀熊(亀熊成福寺のあった所)の真壁氏の庶流が新見庄に移住したものである。私が『儀海みち』を書こうと思い始めて十五年程となるが、不思議な縁である。いまでは筆者の郷土史研究の大きなテーマともなっている。
真福寺文書の奥書に儀海は求法沙門と記しているが、未熟な筆では仏法についてまで追求して書けなかった。尚一層の努力が必要であろう。
日本が末法に入ったのは永承七年(一〇五二)と考えられている。その年より考えると二〇〇八年の今日は滅法の時代であろう。仏教は次第に衰退してゆくという歴史観をもつているが、仏法を求める人々の声は、昨今の事件・事故・経済情勢よりすれば多くなるであろう。神仏を信じるか否かは我々に課せられた最後の問いでもある。否と答えて、生涯を神仏について考える事なく、人々が平凡に暮らせる日が来ることを願うものである。