魂のエッセイ「宗関寺の墓石が傳える」

魂のエッセイ「宗関寺の墓石は傳える」

『三ッ鱗翁物語』の作者で、巻五最後部の署名捺印した志村将監景光の子孫である、志村瀬兵衛景殷の墓石です。新編武蔵風土記稿巻之百四 多摩郡之十六 二五二頁上段に「百姓清左衛門 小名中宿に住せり、先祖を志村将監と云、北条家の家人なり、落城後こゝに隠逸せりと云、」書かれています。カサンキョウと言われた私の母方の先祖は、志村本家の隠居で新井家と志村家土地の境に隠居して人と思われます。飯田英一さんが書かれた『中宿』に「カサンキョウ」と有ります、飯田家の隣に墓地があります。カサンキョウの次の人が、伴七-兵四郎➖嘉十郎➖勘蔵➖義治➖君夫(養子、夭逝)なのです。母は、勘蔵の長女で長兄が、義治です。伴七は、『武蔵名勝図会』三四〇頁上段に「蛇除咒 村内に伴七といえるもの、蛇に食われたる咒詛をよくし、近郷のもの苦痛を忍びてこの伴七が家に至れば苦痛薄くなり、伴七咒詛すれば、忽ちに平癒すること、その妙をえたり。何方より伝法せしことも知らず。山中へ入るとき、伴七が名を呼びて歩行すれば蛇に食われる患いなしとぞ。先年この者歿しければ、その法絶えたり。彼が子ありといえども伝を得ず。」と記されています。辺見敏刀氏著『多摩御陵の周囲』 蛇除まじない 一四五頁から一四八頁にかけて記載があります。常盤宗吾家の管理されていた(お祭り)「中宿 八王子薬師」と記された柱と案内板あり、飯田英一氏著『中宿』に写真があります。
この堂の所から又も數丁進むと、右手に川村を過ぎて恩方村に出られる小路がある、此處で打製石斧を採取した人がある。
この路の岐れる所に志村と謂ふ家がある。此家は昔から代々蝮蛇除の呪ひを家傳の秘法として傳へてゐる。
中にも伴七といふ人が最もその法を得てゐたものと見え、山に這入る時もこの伴七の名を呼んで歩くと決してその害を受けなかったと傳へられ、又蛇寄せの名人であったそうで、この人が一度「集れ」と集合命令を發するや否や、數里の間にゐる蛇は、取物も不敢取、ゾロゾロゾロ集つて来るが、その中には遠方から来た為めに腹がすれて赤くなったのがゐたとも云う。燃しこの蛇寄せの術は餘り行わない事になってゐるが、昔御林山の立木調査が行はれようとした時、それでは盗伐が發覺するので、村中のもが一同、伴七がもとに泣込んで頼むので、村の爲めには代えられぬと、是非なくその法を行った。そんなことは夢にも知らぬ檢地の役人大に威張って山に這入ろうとすると、これは又以下なこと、何處から何處までも、數萬の蛇は蜿蜒として重なり合ひ、もつれ合って足を踏込む場所もない。それには役人も色を失ひ、這々の態で逃げ帰ったと云ふ話がある。尚この家には八王子城趾から掘出した銀の象眼を施した小形の茶釜を持蔵する。この家の傍に「刺拔き水」と云う霊水の出る井戸も在る。(本文のまま)
『多摩文化 元八王子の研究』昭和39年6月刊の中に郷土史の先駆けの村田光彦氏の城東俚談が載っています。目録 1 元八王子 六、 即座に鎮痛する蝮除の厭勝から引用します。本文47頁下から
蝮蛇、ヘビ類は殆と卵から孵へりますが、マムシは胎生と云って犬や猫のように直接、母マムシから生まれます。マムシは内地に住む唯一の毒蛇で、頭が三角で首が細く赤褐色の体で脊に黒い斑があります……今は忘れがちになってゐる伝承の一つに蛇よけの呪言があった。婦女小児なと山野を歩く時〽︎蛇も蝮もどうけどけ(避けろ退けよ)おれは持護子の伴七だ槍も刀も持ってるぞ」と唱ふればヘビに出会ふ事無しと又伴七の代わりに鍛冶屋の婿どのだとも唱へるが、前者の方が正当であろう。
武蔵名勝図会巻七元八王子村の部に曰、以下略……」此書松平冠山の序に文政壬午年と見ゆれど、著者の凡例には文政三年九月とあるので、序文より二年前の著述である事が識れる。こゝに先年とあるのは三四年前とすれば、文化の末年に当たる。今茲昭和廿年からは百三十年許前に此蝮蛇除咒は伴七の死亡で廃絶したようである。又伴七は中宿の人志村久吉の先祖と聞いていたが、案ずるに伴七ー兵四郎ー嘉十郎ー久吉となり、久吉の曽祖父がこの伴七である。
一旦廃絶したかに見えた蝮蛇除咒禁、維新後如何なる訳か志村姓の宗家と呼ばるゝ志村元次郎=此人長命にて城山の地理并に故事に通せり=方家伝として頗る有名であった。其効験の一例ある人の話に足指を蝮に咬ま疼痛に耐へ兼ね車に乗り、妻女に挽かせて志村家に往き施術を受けたる処、戻り道は殆と平癒し、自身車を挽きて帰宅したりと云ふ。
「志村家伝来のまじないと云ふは至極簡単で……此の山に錦まだらの蟲あらば、山だち姫にとりて食わせんアビラウンケンソワカと三遍唱ふるなり……五十嵐弥五郎談
此咒禁の由来に就ては、更に知る処がないが、嬉遊笑覧巻八方術の中に曰、蟲除けとて北見猪右衛門と云ふ名字を書きたる札を押すことあるは、江戸近きゐなかの北沢と云ふ所に彼の猪右衛門と云ふ百姓ありて、まむし其の外の毒虫に刺されたるに奇法の薬を出す。是によりて其の名高く、後には其名を書きて戸などに押して虫よけの咒ひとす。余が知りたる人にて相州津久井県に辺見はもと医師をもせしものにて、それが家方を猪右衛門に伝へたりとなん。其の方は稀薟葉また蒼耳葉(共に薬草の名)の汁をしぼりて胡椒の粉をときて傷処に塗り、歌〽︎このみちに錦まだらの虫あらば山立ひめに告げてとらせん。山立姫は野猪を云ふなり。野猪は蛇を食ふ最もまむしを好むと云ふ。北見猪右衛門の家は天保の初めに跡絶えたり。萩原随筆に蛇の怖る歌〽︎あかまだら我が立つみちによこたへばやまなしひめにありとつたへん」云々と見ゆ。此処のも辺見氏よりの所伝なるやも知れぬ。
刺抜の水と共に奇法の双璧とも云ふべき蝮の咒禁は、昭和年間志村家から長島弥一へ譲渡されて、中宿の誇りの一つは裏宿へ移って往ったが、其の効験は少しも旧に変りはないと云ふ。(本文のまま写しました)
私の母方(志村家)の記録です。辺見敏刀氏著『多摩御陵の周囲』『多摩文化 元八王子の研究』と村田光彦氏の著述は稀少本になっていますので敢えて全文を記しました。f:id:seibei414:20190616174406j:image